週刊アーサー、不定期便
創刊号第5話。今日はアーサー的「伝える」ということ。 この人の場合、伝えることは自分を表現すること。 そして、生きていることが、伝えることのような感じです。
編集 表現すること、伝えることってのは、独りよがりではだめなわけですね。 リングにあがって、相手と戦う必要がある。
アーサー 100年っていうキリスト教の歴史が日本の中にあり、福音、ゴスペルってのを伝えてきた。伝えてきたつもりだけど、本当に伝わっていたのかな?
言葉では伝えたかもしれない、多くの人に。でも人の心の中に伝わったのかなってのは、また別 問題だよね。
語る方は、語ってるつもりなんだけど、聞く方は、聞いてられないってこともあるしね。
 
  やっぱり福音ってのは、命だと俺は思うんだよ。
命ってのはにおいがあり、輝きがあり、熱があるもんだと思うんだ。熱ってのは、冷たい心を持ってる人がストーブのそばに来たら暖かく感じるように、心に熱、パッションを持ってる人がそばにいたら、冷えてる心の人が暖かくなって、「あっ、この人のそばにいると心地いいな。」って気持ちにさせてくれるものなんだ。
編集 それは言葉ではないんですね。
アーサー 野の花にも香りがあるし、命というものにも香りってのがあるはずなんだ。
それは嗅覚で感じる香りとは違うかも知れないけど、「なにかこの人にはうるわしい香りがあるな。完全完璧ではないし、モラル的にどうかなと思うところもあるけど、それを吹き飛ばすような何かオーラ持ってる。」っていうね。
そういう部分で勝負する人間にならないと。
今はまだ芸能界と同じで、うわべだけでキリスト教をふるまっている伝え方してる部分があるんじゃないかな。
でもこれからは、生き方、におい、熱でね、あらわしていかないと。うわべだけで騙せても、最終的には根っこの部分ですからね。だからそこで勝負していかないと。
 
  ほんとの格闘家はK-1であろうが、どんなリングでも戦っていく。
リングの中には当然ルールがあるんだけど、でもそのルールを乗り越えて二人の格闘家の闘争心がぶつかり合う時、血みどろになってリングというキャンバスに絵を描いてるわけだ。
人々は自分の好きな人を応援しながら、その戦いのプロセスを見て感動したり、生きて行こうって思うんじゃないかな。
だからやっぱり「生き方」なんですよね。
ワザのかけ合いとか、弱いやつが強いやつに勝つと、見ている人は喜ぶけどやっぱりお互いが一生懸命戦ってる姿が人に感動を与える。
それと同じでね、俺はキリスト教のリングの中だけで踊る人間になりたくない。浄土宗やいろんな宗教の人たちとも接して、そこでいろんなことを話しながらね、そのリングで二人が戦って、どっちがいいファイトしてんのかっていうね、やっぱそこに来ないと。 いつも自分の殻の中だけでお山の大将になってもしょうがないんだよね。
 
  だから今やってるモデルっていう仕事は全然別 世界だけど、これも表現する世界でね。
自分の中にあるものをどれだけそういうリングの上で表現できるかっていうことは、俺にとってのチャレンジだし。
どれだけ伝わるかってのが全てなんだよ。伝わんなきゃ意味ねぇんだから。
そういう世界にだって、宗教じゃないけど宗教と同じような価値観持ってる人たちがいる。その人たちに、そういう世界とは違うもっと別 の世界があるんだよっていうことを、生き方通して伝える人がほんとのカリスマティックな人じゃないかなと思う。
編集 おこがましいですけど、デイリーぷらっとネットがそのようなことを伝える接点になればいいと思ってるんですよ。このホームページをみて元気づけられるというような。
アーサー このホームページもそうだけど、サービスの世界ってのはモノを売ればいいんじゃなくて、まごころとかおもいやりとかが相手の心に伝わることによって、この商品を買った人が幸せになって欲しいという気持ちが大事だよね。
そこから流れるおもいやりってのは、あなたは大切な存在で、生きているのは偶然じゃなくて、生かされてるんであって、あなた自身の存在がこの世の中を暖かいものにしていくんだよ、ということだと俺は思うんだよ。
   
  そういう気持ちがもっと働くと、世の中のバランスってのはもっとよくなるんじゃないかな。
ただ人間ってやっぱり、俺もそうだけど、欲が深いから自分の思いで突っ走って人を傷つけたりするよね。自分自身の中に善と悪が混合してるから、理想はよい人間になりたいけど、現実はそうじゃない。ま、よい悪いってのはどういうふうに定義付けんのか、これもその人自身のいろんな価値観だと思うんだけど。
俺らは、ものすごくいいエネルギーを持ってんだけど、いいエネルギーよりネガティブなエネルギーの方に傾いて天秤がアンバランスになってる。
   
  人間ってネガティブに支配されたりポジティブに支配されたりするんだけど、1ミリのポジティブがドミノ現象を起こして、全体がポジティブの方に傾いちゃうこともあるわけでしょ。俺らの中にそういう部分って絶えずあると思うんだよね。
だから弱い自分ってのを無視して生きるんじゃなくて、それを見つめながら、その根っこの部分に気付きながら生きて行くことで、本当の意味のポジティブな生き方が出来るんじゃないかな。
   
  聖書の中に「悲しむ者は幸いだ、その人は慰められる」ってね、パラドックス的な言葉があるんだよね。俺らの時代は「男は黙ってサッポロビール」、男は涙を見せちゃいけないんだ、っていう義理と人情みたいなキャッチフレーズがあったけど。
でも聖書は、悲しむ者は幸いなんだ、苦しんだことはよかったって言うんだよ。
喜怒哀楽、 春夏秋冬みたいに俺らの心ってのは絶えず季節のようにめぐっていて、春のルンルン気分とか夏の楽しい気分ってのもあるけど、秋の切なさを感じたり冬になると人生は冬眠だみたいな気分で落ち込むこともあるわけだよね。
絶えず心はめぐってんだけど、そういうことをいかに「自分の心の中にある真実」として受け止めていくか。
暗い雲の向こうには太陽があるんだということがいかに非現実的に思えても、それを信じて生きるっていう方法は、いつかどっかで自分の心の中に発見していけるものだと思うんだ。
   
  今は、自分の心をみつめないで生きている人たちがあまりにも大勢いて、世の中の価値観に乗せられて はつかねずみがガラガラと檻の中で回ってるような生き方させられてるよね。
ちょっと立ち止まって、そういうものに気付くことがすごい発見で、それに気付くことで生き方がガラっと変わっていくっていうふうに思うんだよね。
今は心の時代って言われてるけど、見えない心の宇宙を知るってことが大切なんじゃないかな。
つづく
アーサーホーランドへのメールは下記のアドレスへ(件名にアーサーと書いてください)
戻る