<第12回 教会ってとこについて>
安藤忠雄っていう建築家が、 「人が中に入ったときに建築は最高のものになるのです。」って言ったけど、
建物って生活する空間だから、人が中に住んでなきゃ建物にはなんの意味もないからね。
だから俺はよく言うけど、教会っていうのも建物じゃなくて、建物以上に中にいる人が大事なんだ。建物以上に中にいる人が大事で、あなたという魅力的な人間を通
して、その人間をデザイン、メークした存在が見えて来る所なんだよ。
聖書ではね、そこにいる一人ひとりが「神の宮」なんだって言うんだよ。
そして普遍的な神がスピリットとなって、汚くて臭くて罪けがれた俺らの心に生まれてくれるんだと。
だから俺らがひとりで人生の営みを歩く時に、教会が一緒に歩んでいるんだ。
もっと言えば、俺らをデザイン、メークしたジーザスが一緒に歩んでんだって言ってんだよ。
それが教会の本当の使命であって、そういう事を自覚させる場所であるはずなんだけれど、なんか、いつのまにか会社のようにチェックイン、チェックアウトのような場所になっちゃって、本来の役割を果
たす場所じゃなくなってる教会もあるんじゃないかな。
文部省のマニュアル的な教育制度が問いただされてるけど、そういう教会はマニュアル的になっちゃってんじゃないかなぁ。
礼拝という1時間半とか2時間の枠の中で、賛美歌うたって、聖書の話して、報告して、そしてこれをコイノニア(交わり)だって言ってね。そして、別
れて行く…。
でも、イエスの時代は生活自体がコイノニアだったんだよ。 弟子たちと飲み食いしながら、そこがもう教会だったわけだよね。
イエスは当時の「宮」みたいなところでも話したけど、そこはパリサイ人たちが仕切っていて、罪人のレッテルを貼られてる人たちは入って来れない様な場所になってたんだよ。
だから自分からそういう人達のとこに出て行って、教会の本質的なスピリットを飲み食いしながら感じさせてたわけでしょ?!俺の働きってある意味でそうだよね。
デパートにはいろんなのがあって、高島屋もあれば伊勢丹もある。でも、そこで売っている商品は、値段やサービスは微妙に違ってても、結局同じような物売ってるわけだよ。
俺はデパートの宣伝をしてるんじゃなくて、そこで売ってる商品を俺が持っていくことによって、みんなが手に入れることが出来るという、教会にとっては問屋業のようなものが俺の働きですよね。
俺の中での教会っていうのは、形じゃなくてこの地球なんだ、宇宙なんだ、うん。神が創った自然界を見てたら、それがもう教会のスピリットなんだ。
だから、俺は教会で神に出会ったというよりも、自然界を通して普遍的な神の存在に気づかされた。そして、たまたま恩師に誘われて行った教会の中にいたおじいちゃんやおばあちゃんが、自然界と同じようなエネルギーを俺に感じさせてくれて、点と点がつながって線となるように、それまでわかんなかった神というものが、ジーザスを通
して納得出来るようになってきた。
だから、俺は神によって創造された俺のスタイルで、自然界のエネルギーを感じながら普遍的なスピリットを表現するのが一番俺らしいやり方なんだよ。
教会となるといろんな伝統とか、人間的な要素が含まれるけど、ある意味、教会に行こうが行くまいがジーザスという存在をハートの中に受け入れればいい。極端に言えば、教会が救うんじゃなくてジーザスが救うんだよね。
でも本当は、教会とジーザスがひとつであるべきなんだけどね。
教会が大きくなるとマニュアル的になっちゃうことがあるけど、形じゃなくてエッセンスを求めて集まってくるグループこそフェローシップであり、コイノニアであり、チャーチなんだよね。
俺は、ある人たちとは居酒屋で飲み食いしてると、自然に告白タイムみたいになってしまっている。
その建物は教会じゃないけど、れっきとした教会のスピリットがそこにはあるんだよね。
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