<第14回 父親、アーサーホーランド その2>
子供はみんないい子だけど、やっぱり家庭の教育の中では父親の存在感ってのも必要とされてますからね。
そういう部分では俺はよい夫だとも思わないし、よい親だとも思っていない。
でも、自分のやりたい事やりながら、ここまできてるっていうのは、俺は幸せ者だと思うよね、うん。
なんかこう、 家でお皿を洗ったり、子どもと遊んだり、遊園地に連れていくっていうあの定番のテレビドラマ的なパパ像って言うのは俺には出来ないんだ。
もちろん子供のことは愛してるよ。 今の俺の生き方で、不思議にいろんなものが与えられ、家族を支えることが出来てる。
俺がハッピーならば子供もハッピーになるって、ほとんど自己満足だけど、
俺にそうじゃない生き方させると、そのしわ寄せが家庭にも来て、みんな悲しくなっちゃうわけよ。
俺の子供はみんな自己表現するからね。自立精神も豊富だしね。 自立は成人になってからっていうようなお決まりのコースじゃなくて、紅葉がみな同じ時期に色が変わらないように、人間でも16,7で自立して家にいられなくなるヤツもいるわけさ。
その時に定番マニュアルの社会的常識にはめ込もうとしても、最初からそういう子供じゃないんだから無理なんだよね。学校が嫌いだったらもう行かなくなる子供なんだから。
ふつうの親はそんな時悩んでさあ、無理矢理学校に行かそうとして子供はその狭間でグレて行くんだよね。
俺はもう自分の子ども、わかってっからね。まわりが「あら、あそこ、しつけ悪い」って言っても、子どもは自分で失敗して学んで行くんだよ。
ある時期まで尻拭いしたとしても、そこから先はお前が蒔いた種、お前で刈り取れよ!と。
確かに親としての社会的な責任はあるよ。それは責任として受け止めてるけど、その責任にはマニュアルがないんだよね。
子供を遠くから見守って、なにか失敗したらその責任は俺が取るよ、っていうぐらいの気持ちで見守るしかねぇんだよね。
子供が自立して社会に貢献できるような人間になって欲しいけど、みんなキャラクターが違うし、結局俺は自分の中にある生き方しか見せられない。自分の子供だから当然責任感じるけどね。
最初は親の言うこと聞いて、教会にも行きますよ。親が行ってっから。
でも子供が自分で、教会に行きたくないって歳になった時に無理に行かせないで、
トラックドライバーになろうが、ミュージシャンになろうが、ビジネスマンになろうが、宣教師になろうが、それは彼らが決めて行くこと。
俺らは自分の生き方で見せて行くしかないんだよね。言葉でどんな綺麗ごと言ったって、ヤツら見てるから。だから、子供は一番の批評家だよね。「親父はああいう事言ったけど、やってることは違うんじゃねぇか?」ってね。
勉強も一人ひとり自分たちでやってんじゃない?そういう部分は母親がしっかりしてるからね。
ただ勉強っていっても、通信簿で良い点取るのが勉強なのかって言ったら、決してそうじゃないもんねぇ。
でもこの社会っていう法則の中では、はみ出しすぎちゃうと社会に溶け込めない人間になって、生活できなくなるじゃん。この個性を押しつぶすような社会の中では、はみ出しすぎると仕事雇われないからね。
だから本当は、持ってる個性がそういう社会的常識を溶かして、自分を現していくような人間にならないと
通用しないわけさ。
なんでもかんでも好きなことやって、嫌いなことはやんないじゃぁ通
用しないからねぇ。 自分のその生き方によって、社会とぶつかって反対されるっていうことも気付いていかないと社会の中で生きていけない。
だから親として、どうしてもリードしてやらなくちゃいけない時ってあるじゃん。
そん時に、いかに動けるかだよな…。 いつも話しかけようとしても、うるさいだけになっちゃうけど、必要なときに、親としてその役割を果
たせるかが一番の問われるところじゃないかな? そのためには、ある程度距離を置いていろんなこと話しながら、子供とコミュニケイションをとることも大切なんじゃないかな。
そういう部分では、一般的な家庭みたいにいつも親父がいるってことはないけど、本当に必要な時、ハートとハートが通
ってスパークする瞬間が必ずあるって思うんだよね。 まぁ、本当は子どもと遊んであげたりする事が良いんだろうなぁ、とは思うんだけどねぇ。
でも俺自身、気持ちが乗らないんだよね。 そういう、模範的な父親像っていうか、なんかこう定番のマニュアル的な良き父親像に、俺はなりたくないっていうか…、わがままなんだよね。
俺の家内が雑誌にインタビューに答えて 「うちの主人に家にいてもらうことを期待するのはやめた。今の心配事は、どっかで主人が誰かをぶっ飛ばしてんじゃないだろうかってことなんだ。」って書いてあった。ホントに…。
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