<第15回 自分を表現することで伝えるもの>
俺の働きってのはある部分アーティストと似てるような気がしますよ。
自分が表現したい、伝えたいものがあるわけじゃないですか。
相手がお医者さんであろうが、美容師のタマゴであろうが、
幼稚園の子どもであろうが、また、大学の先生であろうが、
ビジネスマンであろうが、それをいかにして伝えるか。
この前、水商売系の人たち300人くらいに話しをして来たんだよ。
栃木の方にある、ちょっとハイクラスな水商売のお店なんだけど、
そこの社長さんが俺の話しを聞いて、
「ぜひ300人の従業員に聞かせたい。」ってことで、行ったんだよ。
形を重んじる人なんかだと俺のスタイルで拒否反応示すけど、
内側にある「心技体」の部分で見てくれる人は、
俺が発信してるものを受信してくれるんだよね。
受信してくれない人は俺を必要としてないんだから、
俺もあえてそこに行く必要はない。
ただ、どういう人が受信してるかわかんないから、
絶えず俺は発信してるんだよ。
どっかで一生懸命に生きようとしてる人、アンテナ向けてる人、
求めてる人は、俺が言った一言で自分が悩んでた答えを
受信するかもわかんない。
だから本音で語る。このスタイルで。
俺は教会と世の中の狭間で生きて行きたい。
ジーザスが街や村を巡り歩いて罪人と言われる人たちと 飲み食いした
みたいに、俺も教会のスピリットをいろんな場所で匂わせたい。
やっぱり世の中にある人間として生きていくのが唯一の証だからね。
そこでは宗教的な言葉を使うんじゃなくて、自分の生き方で
勝負していかないと伝わらない。
俺っていう人間は、俺をデザインした存在があるからここにいるんだけど、
多くの人はそこまでわかってないかも知れない。
だから、見える生きざまを通して見えない普遍的な存在を
感じさせるっていうことが、 俺の仕事だと思うんだよ。
神っていうのは言葉では語りきれない部分があるから、
この世に生きてる、俺の自然体を通して見せるしかない。
人は見て信じるから、イエスも見える形で「世の中」に来た。
資本主義って、多く働いて多く稼いで多く蓄えて多く施すっていうけど、
それってプロテスタンティズムの影響受けてるわけじゃん。
施すってところは、まだ欲のほうが強いから資本主義本来の
「受けた祝福を分かち合う」ってとこまでいってない。
俺はそのサービス精神に基づいて、人の心を豊かにするために
損得勘定じゃなくて動いてる。
路傍伝道、十字架行進、ミッションバラバ、バイクミッションって、
そこに集まる人がいて、それなりに響いている。
だから、俺はこれからも言葉の筆によって
新しい絵をどんどん描いて行くんだよ。
|