週刊アーサー、不定期便
<第19回、芸術家として生きてゆく>

画家が絵を書くのもそうだよ。
ピカソは12才の頃に描いた絵の方が、 晩年になって
描いた絵より上手なんじゃないかってシロウトは思う。
キリスト教界だと、
アーサーのメッセージは昔の形でやってた方が、
今のピカソみたいなメッセージよりいいんじゃないかって。
でも俺にとって形を語るのはつまらない。
そのメッセージは聞きやすいかも知れないし、
社会の中で洗脳されている人たちにはいいのかも知れない。
その人たちに、そういう生き方はダメなんだよってぶち壊したら、
彼らのアイデンティティーが崩れていく。
でも、聖書の中に出てくる預言者ってそういうところがある。

ピカソはベーシックな絵を描いて来て、今の絵があるわけさ。
ピカソの絵って幼稚園の子が描くような絵に見えるけど、
分かるひとには分かる。
絵を描く人は、みんなと同じ絵を描きたくないんだよな。
子供に太陽の絵を描きましょうって言うと、
クラスのみんなが丸描いてちょんちょん、
真っ赤に塗ろうみたいになるわけ。
太陽の絵ってみんなと同じじゃないといけないのか。
なんで燃える火の玉が描けないんだろう。
お前が本当に思っている太陽って、こういう絵じゃないだろう。
なんでこんな絵を描くんだ。
でも、結局そういう絵を描かないと
まわりから受け入れられないって思ってるんだよな。
本当はいろんな太陽があると思ってんだけど、
その気持ちを殺しながら世の中が受け入れてくれるような
太陽を描こうってのは、個性を押さえつけて
世間の輪の中で上手に世渡りするってことなんじゃないかな。

宗教でもおんなじようなところがあるよ。
疑問、悩み、葛藤、考えることをしないで、
1たす1は2ですよっていう、
そうゆう生き方を上手に出来る人がほとんど。
そうゆう人たちに芸術的な部分で訴えても、
形式重視の彼らのマニュアルでは処理しきれないんだよね。

面白いのはね、
昔の絵描きはその時代の王様とか王女様の絵を描いていた。
だってそうゆう人が専属の画家を雇ってたわけだからね。
そのうち、ブルジョアみたいなのが崩れて、
いろんな絵が出回るようになった。
最初はすごく宗教的な絵を描いて
肉体は罪だなんて言っていたのが、
肉体的な絵を描く時代がやってきて、
また今度は宗教的な時代がやってくる。

やっぱり面白いのは、表現も時代時代に
いろんな影響を受けながら変わっていくってこと。
ミケランジェロが真っ裸に性器とか見える絵を描いたら、
宗教家が「これは神を冒涜している。服を着せるべきだ。」ってね。
ある時ウィンストンっていう人が描いた1700年代の絵を観たんだけど、
その絵はイエス・キリストが真っ裸で十字架に架かってる絵なんだよね。
それ観て衝撃を受けたね。
あの時代にこうゆう絵を描くっていうことは、
宗教界から相当な迫害を受ける覚悟 がいるんだよな。
でも、彼の中にいるイエス・キリストはふんどしも付けてない。
裸にされ虐げられている。
神が人となって来たならば、おちんちんもついているはずだ。
うんこもしょんべんもする神なんだよね。
彼にとって、
「ジーザスは俺のためにここまでしてくれたんだ」
ということを表現することは、
汚れているとかそういう言うレベルの世界じゃなかったんだよな。

だから、画家も昔からその時代その時代の
価値観にあうような絵を描かされたんだよ。
王様がきらびやかな刀持って立ってる絵とか、
そんなの芸術家としてはどうでもいいわけだろ。
結局そんなのは王様のエゴじゃねえか。
そいつを光らすためだけの。
そんな絵を描いてる時画家はどう思っただろうな。
「何だよこのやろう!」と思ったかも知れないけど、
でも金がないと生きていけないしな。

戻る