週刊アーサー、不定期便
<第45回、一歩を踏み出す>

俺が好きな岡本太郎が言うにはね、
学校で太陽の絵を描きますっていったら、
子供たちはみんな丸描いて、
ちょんちょんちょん。
先生はその絵を見て、
2重丸3重丸にするんだよ。

子供は、まわりを見て、
みんなと同じでよかった、ってなってる。

でも、「それがお前の感じる太陽なのか?」
って聞いたら、
「そうじゃない。本当の太陽は火の玉だ、
燃える炎だ。」って言うんだよ。

赤もあればピンクもオレンジも黒も、
いろんな色が入り交じってる。
なんでそんな絵を描かないかっていうと、
それを描いたら変に思われるからだ、
ってね。

本来の教育ってのは、
そんな太陽の絵を引き出させるもののはず。

でも、社会の中で
上手に出来る子たちを育てるってのが、
今の教育だからね。

だから、岡本太郎は、
こうすりゃいいって言うんだよ。
校長先生に絵を描かせて、
それを子供たちが見てあげる。
逆をやってみたらどうだってね。
校長先生も冷や汗をかくよ。

そうすると子供への教え方が見えてきて、
やっぱり謙虚になるよ。
教える資格を持ってる者が、
実は教える資格がないってことも
あるかもしれない。

以前話したけど、自分の教え子と
関係が出来てしまった先生がいる。
でも、そこで経験したことを
自分でしっかり受け止めたら、
彼は本当の教育者になれるかもしれない。

今の社会の形の中では
厳しいことだけど、
彼自身が教育者としての
使命を持っているなら、
教室という限られた場所じゃなくて、
人生というステージで
いろんな子と出会った時に、
教室で教えてたよりも、
もっとすごい表現者に
なれるかもしれない。

だからこそ俺は
イエス様ってすごいなって思う。

神がその姿をぶち破って、
人となってこの世に来た
というところに、
すべての答えがあるような気がする。

先生とか牧師っていう
形作られたイメージをぶち破って、
その人が本来持つ自分らしさ
というものを見せながら、
人と接していくのが
教育者であり、牧師。

神が人となって来た。
人間味ある生き方ってのは、
そういうことなんじゃないかなって思う。

これって、言うのは簡単だけど、
すごく高いハードルだよね。

でも聖書の中では、
全世界に出て行けとか、
黄海を渡れとか、
ヨルダン川を渡れとか、
エリコの周りを歩けとか、
結局そういう壁を
ぶち破れということを言ってる。
信仰の一歩を踏み出せとか、
強くあれ雄々しくあれとかね。

俺はなんのために
そんな困難に挑戦するのか。
それはやっぱり、
人々に祝福を届け、
命の尊さを感じてもらうため。

そのためには、自分自身が
その祝福とか命を感じてなきゃ、
人に伝わるだけのエネルギーが出てこない。

しゃけは岩や石にぶつかりながら
逆流を上り、
最後には自分は死んでしまうけど、
そこで祝福の命を産み出す。

そうやって産み出されたものが、
また新たな祝福を産み出していく。
そういう大きな流れの中に
生かされている一人として、
与えられた命を全うする。
それが「生きる」というエネルギーなんだよ。

…つづく

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