第845回「いのちの水」
もう、ずいぶん前のことですが、エジプトのカイロから、シナイ山、そして、そこからイスラエルへの道を通りながら、すさまじい荒れ野というか乾いた山野をバスで通過したことがありました。ここをイスラエルの民が旅したのかと、驚きながら、当時の人たちの心細さを思いました。オーストラリアの真中を走り、アデレイドからダーウインまでバスで出かけたときも同じような思いがありました。いずれのときも、夜空の星の多さに圧倒されました。
そういう土地を旅しながら、水の有難さを感じました。生きていることの不思議さやすばらしさを味わいました。神様からの助けというか、いのちを提供し、保持してくださっているその愛を実感したような感じでした。
まさに、ああいう荒れ野で40年間イスラエルの人々がさまよいながらも、生かされてきた背後には、岩を水のみなぎるところにするという神様の不思議な「生かす力」があればこそだなあと感じました。私たちは、決して、偶然の連続で生きているわけではないように思います。
私たちは、当たり前のように水を飲み、空気をいっぱい吸い込んでいますが実は生きているということについての根源的な理由や原因を思い巡らす作業がもう少し必要なのかもしれません。
「この水はどこから来たのか?」「私という存在はどこから来たのか?」
「どのように命が保持され、どのように希望をいただいたのか?」
岩地に水を溢れさせ、砂漠に泉を湧きあがらせることのできるお方の助けがあったことを、もっと素直に感謝したいなあと思います。
祝福がありますように心から祈ります。 |