第849回「役に立たないものでも」
この言葉は新約聖書にも引用され、イエス様のことを指しています。人の目から見て、つまらないと思われ、たいして役に立たないと思われたいわば、評価の低かった石が、その家の土台の一番重要な部分を担うことになるということが言われているわけですが、神様が、どういう人をお用いになるか人の評価とは違う何かがあるようです。
そういえば、聖書に書かれている指導者たちには、普通はリーダーとして選ばれないだろうなと思うような要素が案外多いのです。モーセはすでに80歳を超えていましたし、イエス様の弟子たちは、議論の好きな気性の荒い漁師たちが多かったですし、パウロは結構短気な人でしたし、ペトロは強情ですし、一般的な、社会的な評価だけを考えると、決して総合評価は高くありません。あの人イヤだよって言われる何かを持っていたような気がします。社会的には「捨てられ、拒否される」何かがあるような気さえします。でも、神様がともにいて、彼らは有益なしもべとなりました。神様の支えがあったので、有益な仕事ができたのです。それは、私たちだって同じでしょうね。
イエス様についての社会的評価は、つかみどころの無い、否定的なものでした。だからこそ、十字架という形で、捨てられたのです。罪びととして、十字架にかけられた存在を「救い主」としてあがめるなどということは普通の考え方からすれば成立しないことだろうと思います。でも、まさに、マイナスイメージである十字架の出来事を私たちのための救いのわざとして理解できるようにしてくださったのは、神様のみわざなのです。
そもそも死刑の道具をアクセサリーにするなんて、普通考えにくいですよね。でも、そうせざるを得ないほど大きなことを十字架によって神様は成し遂げてくださいました。十字架はあなたのための「罪の赦しの場」なのです。
今日も神様の祝福が届きますように。 |