第851回「平和の道」
自分がどんなに誠意をもって真実を語っても相手がゆがんだことを語り不正を語り続けるなら、そこに平和は訪れません。平和は、双方に真実や誠実が見えなければ成立しないものです。少なくとも誠実さや真実さを双方が感じ、双方が納得しなければ平和はやってきません。
こちらは、これほど折れているのに、相手は戦いを仕掛け、挑発してきている
という雰囲気は不穏であり、不安であり、不信の世界です。しかし、案外、そういう感情はお互いが感じているものでもあります。つまり、人間がどんなに、私は平和を語っていると言ってもその語り方や、その振る舞いが挑発的だったりすれば、相手から見れば戦いを挑んでいると感じられてしまうでしょう。
私たち、罪あるものは本当のところ「平和の道を知らないのです」。それはパウロがローマの信徒への手紙に書いた内容そのものです。私たちは神様との平和も人との平和も作り出すことなど、自分の力ではできないものです。神様からの介入と、双方が罪ある者だということを、イエス様の十字架の前で認めることが出来ないと、本当の平和は成立しないのだと聖書は教えています。
今朝の詩編は、神様の人間に対する嘆きのようにも聞こえますね。心が痛くなります。
今日もお元気で。
祝福がありますように。 |