種まきの作業は、もし自分の手元に蓄えが豊富にあるのなら辛くはありません。でも、自分の手元にそれほどたくわえがなく、その種をまかなければなにひとつ期待できないという状況の中では、泣きながら出て行くという情景が見えてきます。
手持ちの最後のカードを切るかのように、種まきに出て行く、そこには希望がなければなりませんし、きっと収穫があるという信仰がなければ先に進めません。
今、できる善いわざを実行すること、相手がそれをどう評価しようと相手の祝福を願って行動することとも似ています。
種をまき、収穫までの時間は、不安、心配、あせりなどが押し寄せてくるでしょう。でも、それを怖れるあまり種をまかないわけにはいきません。
詩篇の作者は、そういう不安を持ちながらも善いわざに励む人たちがかならず、喜びの歌を歌いながら帰ってくる日を迎えることができるのだと教えています。
ふと、こんなことを思い巡らしました。今まで食べることしか知らない人、食べて楽しむことしか知らない人が突然、食事を作ることを求められ、食材を買い揃えることを求められたらどうなるだろう。腹を立て、いらつくことでしょうね。でも、それを抑えて、その食べ物がいったいどこから来て、どのように作られたか、どれほどの努力やなみだがそこに添えられているのかを、身をもって味わい、教えられると、ものの見方が間違いなく変わるでしょうね。
同じように、私たちは、どこかで「涙とともに種をまく」という作業の辛さ、「泣きながら出て行く」という、必ずしも自分がやりたいと願っていることではない作業を担わされるという辛さを経験することは、私たちの成熟のためには必須なのかもしれないと感じました。
人生は自己実現のためではなく、神様が与えてくださる収穫を味わって喜ぶためにこそあるのです。自分の思い通りに生きることが人生ではなく神様がくださる辛い日々も、悲しい日々も、丁寧に希望をもって生き、神様からの喜びの日々を確実に味わう、神様と一緒に喜ぶためにこそあるのです。
雨の日、みぞれの日、台風の日、泣きそうになりながら新聞を配達しに出かけて行った日々を思い出していました。その作業が終わると、温かい食事が用意されていました。そして、神様が支えてくださったからこそ、そういう日々を通過することができたのだと今、思います。
出て行くことがあるからこそ、喜んで帰ってくる日があるのだと信じながら、よいわざに励みたいなあと感じています。
祝福がありますように。