神様ご自身の働き、神様ご自身の守りをしっかり味わいながら生活できないと、結局のところ、私たちは疲れ果ててしまいます。家を個人の家と考えることも出来るし、神殿や教会と考えることもできるかもしれません。町を守る人が目覚めているという出来事は戦争や災害に備えていわば自警団を形成して夜回りをするような出来事と考えることができるかもしれませんね。
私は小学生の時代に、田舎の祖母のところに冬休みに遊びに行きましたがその近くの中学生の友達と、拍子木をもって、「火の用心」カチカチ「ひのよーじん」カチカチと、隣組の地域を夜4回くらい回ったことがありました。その中学生の友達と、「ねえ、本当に火事があったら俺絶対その家が燃えるまでずっと見てるかもしれない」などと恐ろしいことを話していた記憶があります。何の役にも立たない夜回りでした。
平穏無事に生きることって、当たり前のことではありませんね。神様の守りと神様の支え、神様からの働きかけが、目に見えないところで本当にあるのだと信じられたとき、私たちは本当の意味で謙遜になれるのかもしれませんし、その謙遜さは「人を建てあげる」土台になるのかもしれません。自分を建て上げることも、他者を励まして立たせるということについても。
「神様、今日も、私たちの家を、そして町を憐れんでください」という思いは私たちにとっては、基本となる祈りなのです。
祝福がありますように。