優越感から、「自分は幸いな人だ」と自負するのではなく、ひとつひとつ神様からの恵みを思い起こして、本当にもったいないほどの祝福としてそれを受け取り、感謝と
礼拝をささげながら、「幸せだなあ」と感じることができるとすれば、この詩編の「さいわいな人」に該当するのだと思います。
そもそも、自分を「何の資格もないのに、神様が恵みと祝福とを与える対象として選ばれた存在」として見続けることは簡単なことではありません。私たちはいつの間にか「恵みに慣れ」「そんなの当たり前」と思ってしまう傾向をもっているからです。
どこかに「主を畏れる」という意識と、「主の道を歩む」という意識とが、育てられる必要があります。礼拝者として生きるという視点と神様が喜ぶことを喜び、神様が悲しむことを悲しもうという視点です。そういうことに励みながら生きるとき、恵みの祝福のうれしさは倍加するのかもしれません。
その道に進みたいですよね。
祝福がありますように。