本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!

見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。

詩篇、133:1

第864回「共にあるということ」

私には兄弟が2人います。妹がひとり。私と彼らとは年齢がすいぶん離れているので、私はある時期からなんとなく「叔父さん」のような存在として見られているかもしれませんが、とにかく、食事の席に共に座ったり、集会での席に一緒に座ったり、仕事の現場に共に座ったりできることを本当にうれしく思っています。

私は長男なので、結局仕切ることが多いですが、それでも、役割がうなずかれているので、楽に仕事が進みます。

先日、アメリカやカナダからのお客様がどうしても新幹線に乗りたいというので東京から小田原まで割引の切符を買って、午後から出かけました。

そこに、弟の奥さんが待っていてくれました。弟は仕事で東京に来ていました。その連絡は弟が職場から奥さんに電話しておいてくれたわけです。弟の教会を見て、小田原城に行って、100円ショップに行ったのですが、その間、義理の妹は実にてきぱきと、甲斐甲斐しくガイドとして動いてくれました。「兄弟がともに座っている」という拡大版をそこに見る思いがしました。うれしいことです。

東京に戻り、歌声ペトラの集会はすでに始まっていましたが、外国のお客様とまず、その集会を覗き込み、そこに、わきあいあいと演奏している仲間や賛美している人たちを見て、心が温かくなりました。そこにも、兄弟が共に座っているという出来事を確認した思いがしました。

同じビルの6階にある事務所に行くと、ビー・ジャパンのスタッフが番組制作の仕事を時間を忘れるほどの思いでしていました。私は明日のことごとを少し指示して歌声の会場に戻ったのですが、そういう共に働く人とのコミュニケーションがしっかり受け止めあえるときには「兄弟が共に座る喜び」を味わうことになります。

人は、共に座ることで、目の高さがほぼ同じになります。互いに見つめ合うことも互いに、笑顔を交換することも、互いの意見を威圧的にではなく伝えることも、目の高さが合っていると比較的簡単にできることが多いようです。

互いに祝福を分かち合いたいのであれば、まずは、共に座り、目の高さをあわせることから始めるとよいのです。それは物理的な高さばかりでなく心理的、精神的な目の高さも同じです。見下すことをしてはなりません。

目の高さをあわせるということは、決して同等意識を持つことではなく、相手を軽蔑しない、見下さないということと、謙遜に、慎み深く相手に対して「あなたはわたしより高貴な存在です」という意識をもって接する姿勢で接することを意味しています。誰に対してもそうあるべきなのでしょうが、なかなかそういうわけにはいきませんね。

でも、共に目の高さをあわせて座るということの大切さは、しっかり覚える必要があります。くどいですが、これは平等意識を持つこととは同じではありません。愛がすべての鍵であり、謙遜さ、慎み深さがある種の潤滑油になります。そういう部分をもっともっと身につけたいものだと心から思います。

祝福がありますように

関根一夫

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