本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!

バビロンの流れのほとりに座りシオンを思って、わたしたちは泣いた。竪琴は、ほとりの柳の木々に掛けた。

詩篇、137:1〜2

第868回「礼拝に戻る」

自分たちの不信仰のゆえに捕囚の身となってしまったイスラエルの民が我に返って、捕囚の地バビロンで、涙している情景が目に浮かぶようです。

故意に礼拝から離れ、神様に背を向けて歩むことは危険です。一時的には良い事が起こるような気がしても、神様から離れ、神様を礼拝することを軽蔑してしまうことは大変危険です。

神様を礼拝できる心というのは、ある意味で神様の支配におかれていることを感じることができる心でもあります。しかし、神様から故意に意図的に逃げてしまうと、今度は神様以外の何かで心を満たさざるを得なくなるのです。しかし、心の空洞はそんなに簡単に埋まるものではありません。

何でこうなってしまったのだろうと泣けるうちに、礼拝に戻ることができたらすばらしいことだと思います。竪琴は弾かれることもなく、木にかけられたままだとしても、もし礼拝に参加することができたら、心の竪琴は鳴り響くことでしょう。

新約聖書の中のふたりの息子の話のうちの弟のように、父親から離れてしまった自分を悔やみ、我に返って父親の元に戻るように、礼拝に戻れたらいいですね。

クリスチャンの方々にとっては、私はいつも礼拝に出席しているので今朝のメッセージは私のためではないと思われますか?どうぞ、祈ってください。日本の教会の礼拝にもっともっと神様を礼拝する喜びが増し加えられるように。みことばを味わうこと、みことばをしっかり心に留めることの大切さを礼拝を通して味わえるように。

教会における組織や人間的な問題以前に、本当に神様の臨在に触れることができ生ける神様のみことばに触れることができる礼拝となるようにお祈りください。礼拝そのものを神様への奉仕として喜んで歌い、祈り、捧げ、神様のみ声に耳を傾けることができるように。

礼拝の真ん中でさえ、シオンを思って涙している人たちが大勢居るのです。教会につまずき、礼拝にただただ義務的に参加しているだけの、満たされない民がこの国に大勢居るのです。何となく組織に隷属させられて不自由に生きているクリスチャンたちの数は少なくありません。

主よ、私たちの礼拝を刷新し、あなたのみことばを受け取り、あなたの心を知ることの¥できる礼拝にしてください。

祝福を祈ります。

関根一夫

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