自分の中に「助けや支え、供給」が必要だと感じている人でなければ神様に求めることをしないでしょうし、神様によって助けられ、満たされたという経験がなければ、神様に感謝することもしないかもしれません。
ただ単に物質的な貧しさではなく、精神的、霊的な貧しさや人を愛し人を赦すという面での貧しさや乏しさは、どういう人にも存在します。
だからこそ、憐れみを請い、祝福を求めるのです。でも、中にはもうそういう面は完璧に出来上がっていると錯覚し、神様に求めるものなど何もないと豪語する人たちもいないわけではありません。
おなかがいっぱいの人においしいアンパンを差し出してもそれを必要としないように、自分の中に満腹感があれば、神様からの助けも不要なものと感じるのかもしれません。
キリストのように赦すことが出来ない私。
キリストのように愛することが出来ない私。
キリストのように従うことが出来ない私には乏しさがあるのです。そのことを認められないと神様とお付き合いは難しいです。
神様、心の貧しい私を憐れんでくださいと祈れる人こそ幸せな人なのかもしれません。
祝福がありますように。