本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!

御前にわたしの悩みを注ぎ出し御前に苦しみを訴えよう。わたしの霊がなえ果てているとき、わたしがどのような道に行こうとするかあなたはご存じです。その道を行けば、そこには罠が仕掛けられています。
目を注いで御覧ください。右に立ってくれる友もなく逃れ場は失われ、命を助けようとしてくれる人もありません。
主よ、あなたに向かって叫び、申します。「あなたはわたしの避けどころ命あるものの地で、わたしの分となってくださる方」と。

詩篇、142:3〜6

第873回「だからこそ」

敵に追われ洞穴に隠れているダビデが自分の心境を歌にしたものです。

私たちが本当に追い込まれているときには、自分の心に余裕が無く人の言葉に簡単にだまされてしまうことがよくあります。自分に落ち度があるからではなく、一方的に悪者扱いされ、嫉妬の対象となり、いじめの対象となってしまったときには本当に落ち込みは激しいものになるでしょう。

しかもそのことで、自暴自棄に陥れば、自分で自分のいのちを断つことさえ考える
ようになってしまうのです。
人の言葉も信用できず、自分の心をコントローもできないような事態は霊がなえてしまったときには、様々な罪の罠に落ち込みやすいのです。

だからこそ、創造主である神様への信頼が重要な意味を持ってきます。

自分の中に力も無く、自分のそばに友もいない、自分の周りに道がないような気がする、そんな状況だからこそ、神様への祈りができるかどうかは大きな意味を持つのです。

興味深いのは、物事が順調なときには、祈ることが比較的簡単にできるのです。しかし、逆境の中では自分で簡単に行く先の結論を言葉にし、それ以外の意見を考えたり受け入れたりする余裕もなくなり神様に祈ることも、神様に助けを求めることも、できなくなってしまうことがあるのです。私たちが陥りやすい不信仰の典型かもしれません。

「私たちのピンチは、神様のチャンス」という言葉をどこかで聞いたことがありますが、まさに、そうかもしれません。誰でもピンチになど陥りたくないですが、残念ながら、どんな人にも行き詰まりや絶望感に直面することはあるのです。

そのとき、どうするのか、形はそれぞれ違いますが、いのちと希望を選んで欲しいと思います。自分の勝手な思い込みではなく、神様への祈り、神様への訴えをしてほしいのです。そして、神様の介入を期待してほしいのです。だからこそ、こういう詩篇が書き残されているのです。

祝福がありますように。

関根一夫

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