天においても、地においても、創造主である神様の御名を讃え、感謝し賛美すべきことが勧められています。身分の高いものも、そうでないものも、歳の若い人も、そうでない人もこぞって、主を賛美すべきことが奨励されています。
ある意味で、この賛美するという出来事の中に、つまり、礼拝という行為の中に、造られた人間の平等が味わえるのかもしれません。王様もおさなごも、同じ神様に感謝をささげ、賛美を捧げるという光景は、もし、そこに本当に心のこもった礼拝が存在しているなら、世の中のどこにもないほど、うるわしい、同じ方向を向いた、一体感を味わえるひとときとなるでしょう。
日本におけるお祭りとはちょっと違う、礼拝での一体感がそこにはあります。掟でしばられた礼拝での一体感とも違う、穏やかでやさしい一体感があるはずなのです。
律法主義や、形式主義ではなく、指導者の横暴や、無理強いなどでもなく、自発的な感謝と賛美の心の表明が礼拝の中で味わえたらいいですね。生かされているという現実をもう少し、ゆっくり、もう少し、しっかり味わいながら、感謝できるものでありたいなと思います。
主に感謝。
祝福がありますように。