本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


太陽の下、人は労苦するがすべての労苦も何になろう。一代過ぎればまた一代が起こり永遠に耐えるのは大地。日は昇り、日は沈みあえぎ戻り、また昇る。風は南に向かい北巡り、めぐり巡って吹き風はただ巡りつつ、吹き続ける。川はみな海に注ぐが海は満ちることなく
どの川も、繰り返しその道程を流れる。何もかも、もの憂い。語り尽くすこともできず目は見飽きることなく耳は聞いても満たされない。

コヘレトの言葉(伝道者の書)、1:3〜8

第882回「生かされている」

昨日で詩編が終わりました。今日からは「コヘレトの言葉」という旧約聖書の中のひとつの巻を読んでいきます。コヘレトという言葉は「集会を召集するもの」とか「集会での説教者」という意味があります。伝統的には著者はソロモン王だとされています。

今朝の言葉は、自然の営みの雄大さを語りつつ、人生のむなしさを表明しているなんとも物悲しい内容です。自然界は淡々と繰り返しながら、悠然と続いているのに、人間は変わり易く満足することも、安心することもなかなかできず、不安定なところに置かれているという感じの表現がここにあります。

イスラエルのガリラヤ湖やエジプトのシナイ山などに行くと確かに、その風景はイエス様が見たもの、モーセが見たものと同じなのかもしれないなあと思うような原風景がそのまま残っている感じがします。しかし、人間は、80年、90年の時代を経て死んでいきます。その繰り返しが人間の歴史であり、個人の記録です。

だからこそ、自分の小ささを認める姿勢が大切なのかもしれません。雄大な自然の中に置かれ、その中でひととき、生きることを赦されているお互いであることをもう少し謙虚に受け止めるべきなのかもしれません。満足できにくい、欲の皮のつっぱった私たちですが、今この時代に生かされ一緒に泣いたり、一緒にわらったりできていることを、その一瞬、一瞬を貴重なものとして、うなずくことがとても大切なものなのだと思います。

確かに、私たちの日常は、記憶に残るとはいえ、その記憶もそんなに確実なものではありません。だからこそ、生かされている今を丁寧に過ごしたいものです。自分の祝福を祈ると同時に、ともに生きている、あの人、この人の祝福を祈りながら生きること、それができると、満たされない部分は残りながらも何か満たされる部分もあることを実感できるようになるのです。

祝福がありますように。

関根一夫

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