人生は常に変化しており、様々な時が重なり合って、人生を豊かにしたり落ち込ませたり、有頂天にさせたりします。
偶然と思える出来事にも、不可解な出来事にも、伏線となっている「時」があり、その時、その時を、どのように受け止めることができたかによって人生の喜びや悲しみが変わってきます。
人生には「私が望んだ時」ばかりでなく、神様がもたらしてくださった「時」や、神様が積極的にもたらしたものではないにしても、人間の不注意や罪、自然災害などによってもたらされた「時」もあります。すべての「時」を理解することは不可能ですし、これからどういう「時」が待っているのかを予告することも不可能ですが、すべては「神様に知られている」とうなずき、認めることができると、出来事の理由は理解できなくてもどこかで「神様、あなたにお委ねします。最善へと導いてください」と祈ることができます。自暴自棄ではなく、丁寧に生きることができるのです。どこかで帳尻があるようになるはずだと信じて、無念の思いだけでなく再出発の希望を持って生きることができるのです。
しかも、祈りながら、「私が生きている間に」という条件でなく、「永遠の中で」という条件を設定しながら祈ることができるのです。
私たちの心は永遠を考え、永遠を夢みるように作られています。「このからだが死んだら終わりだ」ということだけでは、私たちは満足できないように作られているのです。
「夜明けの光りおとづれて、昨日は過ぎて行きました。
神様から、託された今日という日を
歌いながら、祈りながら、歩み続けよう。
思い煩いかかえつつ、明日のことを悩むより、
神様から託された今日という日を
歌いながら祈りながら、歩み続けよう」関根一夫詞
今日を丁寧に生きること、神様から託された時として生きること、その連続の中に永遠の喜びが見えてくるのかもしれません。
祝福を心から祈ります。