この言葉は大変興味深い言葉であり、理解の幅を広げすぎると結構危険な発想にも通じてしまうかもしれません。しかし、今朝、私はこんなことを考えていました。その昔、「どんなことでも、ひとつのことに打ち込み、ひとつの柱となる何かを持っていれば人生は何とかなるものだ」という発想が社会の中にはありました。それゆえに、ひとつのことに打ち込むことが美しいものとされました。それはどんどん範囲を広げていって美学となりすべてのことが「道」という感覚で捉えられるようになりました。
たとえば、野球にしても日本の野球は野球道といえるほどよそ見をさせない縛りがあります。卓球もテニスも同じです。つまりひとつのことに打ち込んだらよそ見などしないで、それだけやっていれば良いのだという発想です。しかし、息子が通っていたアメリカンスクールでのスポーツに対する感覚は全く違っていました。クラブ活動でさえ、シーズンによって、ある時期はバスケット、ある時期はサッカーある時期は野球と何でもやらせてもらっていました。
もちろん、プロの道を進むには、どこかで、割りきりが必要ですが、とにかく、ひとつのことだけをすべてのこととして考えずに、いろいろ他の事柄にも視野を広げ、経験を広げるという感覚は日本にはなかなか根付きにくい発想だなあと思いました。
私は野球部におりましたので、野球しか味わえませんでした。しかも、途中でヒジを痛めたのでスポーツそのものから手を引くような感じの学生時代を送りました。今考えれば、水泳もあっただろうしサッカーもあったはずなのに、ひとつのことにしか頭が回っていませんでした。いわば野球道に縛られていたのです。
他の選択肢があるのだということを、いつでも、どんなときにも思い出せるためにも、ひとつだけに固まらないで、いろいろ継続的な楽しみを味わえることはすばらしいことだと思います。そういえば、「関根先生は今でもギター弾いて歌ってるんですねえ、私も若いときはやってたんですよ」という牧師たちに時々会います。ギターは若いときの遊び、おじさんになったら聖書一筋とでも言いたいのかもしれません。聖書もギターもあって良いと思うのですが・・・。
道は、いつでも、ひとつだけではない。救いの道はひとつですが、人生における選択肢はいろいろあります。ひとつだけに勝手に固まらず、いくつかの選択肢を視野にいれ、楽しみながら進みたいものです。人生はあれか、これかという選択の日もありますが、あれもこれもという日々の方が多いのです。それを祝福と呼びます。
神様の祝福があそこにも、ここにもありますように。