本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!



朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。実を結ぶのはあれかこれか それとも両方なのか、分からないのだから。

コヘレトの言葉(伝道者の書)、11:6

第842回「善意の伝達」

この章にはいくつかの積極的な勧めが書かれています。
11:1 あなたのパンを水に浮かべて流すがよい。月日がたってから、それを見いだすだろう。
11:2 七人と、八人とすら、分かち合っておけ/国にどのような災いが起こるか/分かったものではない。
・・・
11:4 風向きを気にすれば種は蒔けない。雲行きを気にすれば刈り入れはできない。

善意の伝達というのは、一見無駄なように見える小さなことの連鎖の中で実を結んでいくことが多いように思います。「パンを水に浮かべる」とか、風向きや雲行きを案じながらも、善意の種をまくとか、そういう作業は、決して繁栄や見返りを約束してくれるものではありません。しかも、朝も夜も継続することが勧められているわけですが、ようするに、私たちの生き方全体が、そうであるようにという勧めなのです。

伝道とか宣教とか、そういう宗教的な作業のみならず、私たちの生き方全体を通して「善意や平和や祝福の伝達」のために、一見無駄に見えるような作業も、実りが期待できるのかどうかわからないような状況の中でも、あきらめず、精一杯の努力をして、いろいろな方法を考えながら、生きること。損得勘定では、どうしても赤字になりそうな生き方かもしれません。

でもそれは、何とエキサイティングな生き方になることでしょうか。朝も夜も、どういうふうにしたら、あの人を祝福できるだろうか、どういうふうにあの人に神様の祝福を届けようかと考えることができたら、考える人もそれを受け取る人も、心がワクワクするのではないかなあと思うのですが。

そういうやり取りの中でいつしか、立場が逆転したりすることだってありますよね。祝福はいろいろな形で返ってきますものね。もちろん、見返りは期待できませんが、いわば、天に宝を積めますからね。「一度限りの人生ですから、私にできる小さなことが、あなたのお役にたつのであれば、ぜひ今それをさせてください。」そんな意識で生きていけたらなあと日々思います。

祝福がありますように。

関根一夫

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