イエス様の誕生について、いくつかの反応が書かれています。外国からやってきた占星術の学者たちは、イエス様のことを「ユダヤ人の王」として理解しています。これは、おそらく、ユダヤの国の王様という意味ばかりではなく、ユダヤ人の精神的、霊的な世界における主権者という考えもあったかもしれません。彼らはイエス様を礼拝するためにやってきました。もしかしたら、霊的な世界における最高位の存在として礼拝しようとやってきたのかもしれません。星が誕生を知らせるほどの存在ということで、彼らは大きな期待を持っていたに違いありません。
ところが、実際にその地域を統治していたヘロデ王にとっては、この知らせは、不快な知らせだったわけです。別の王が生まれたとすれば、自分の地位はどうなるのだろうと考えるのは当然ですものね。彼は、その地域の赤ちゃんたちを虐殺する計画を立てて実行します。自分を脅かす存在に対する恐れは強烈なものでした。確かボンヘッファーという神学者だったと思いますが、このときに殺された赤ちゃんたちのことを「最初の殉教者」と呼んでいます。
エルサレムの人たちも王と同様だったと書かれていますが、神様から遣わされた王に忠誠を誓うような準備がまったくないことを表しています。彼らは自分たちの宗教的な活動やその形態、その金儲けの手段、今までのやり方を絶対に邪魔されたくなかったのでしょう。エルサレムの人たちという言葉でくくられているのは、おそらく、一般庶民ではなく、宗教家たちであり、その組織に安住している特権階級の人たちだったろうと思います。
キリストの誕生は、本来、エルサレムの人たちには歓迎されるべきものであり、すべての、心ある人たちには歓迎されるべきもののはずですが、そういう空気はまったくありません。無名の外国人だけが、イエス様を礼拝しに来ているだけです。これは、私たちの状況とも似ているかもしれませんね。本当は、神様が遣わしてくださった王様に心を開いて忠実に歩むことが最善だとわかっているのに、なかなか、その王様を歓迎できないのです。自分の人生の邪魔をされるような錯覚をもってしまいやすいのです。それこそ、人間のいじけた罪の性格なのでしょうね。
あなたが態度で示しているイエス様への応答は、どういうものですか?東の国の博士のようだったらすばらしいですね。
祝福がありますように。