本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


わたしは、悔い改めに導くために、あなたたちに水で洗礼を授けているが、わたしの後から来る方は、わたしよりも優れておられる。わたしは、その履物をお脱がせする値打ちもない。その方は、聖霊と火であなたたちに洗礼をお授けになる。

マタイによる福音書、3:11

第846回「謙遜さ」

これはバプテスマのヨハネという人の告白です。ヨハネはイエス様の親戚なのですが、彼には特別な役割がありました。救い主のために道を備えるという役割です。彼はイエス様が登場する前に、人々に「悔い改めよ。天の国は近づいた」と説教し、洗礼を施しました。悔い改めというのは、方向転換という意味があります。天の国が近づいたという言葉は「神様の支配がもっと明確に到来しますよ」という意味であり、「救い主が来てくださいますから、今までとは違う方向を向き、そのお方の支配にゆだねなさい」という説教をしたことになります。

そのヨハネがイエス様に対して、自分のことを「履物を脱がせる値打ちもない」と語っています。これは、救い主の前では「私は奴隷ほどの価値もないのです」というもっとも謙遜な言葉です。自分は本当に小さな「しもべ」なのだと表明しています。しかも、救い主は聖霊と火で洗礼を授けると教え、形式的な水の儀式ではなくイエス様を信頼することで「聖霊が心を覆ってくださり、心を一新させてくださり、最終的には罪を焼き滅ぼしてくださる」と教えました。

自分の立場をわきまえ、救い主に対してでしゃばることをせず、身の程を知っている存在は、人間として大変魅力的です。新約聖書に出てくる他の宗教関係者は、イエス様に向かって論戦を挑み、何とか陥れようと罠を設け、信用していません。まさに、まむしの毒をはらんでいます。しかも、極度に傲慢です。まるで天国の入り口の鍵を持っているかのような態度です。他の宗教家たちと対比させると、ヨハネの独特の魅力が浮き上がってきます。彼は、救い主を告知し、指し示す役割を「しもべ」としてしっかり果たしているのです。

このヨハネのイエス様に対する謙遜さは、教会におけるすべての牧師や指導者の、いいえ、主に従う人たちすべての模範と考えることができるかもしれません。

祝福がありますように。

関根一夫

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