本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。 二人はすぐに網を捨てて従った。

マタイによる福音書、4:18〜20

第847回「あなたのままで」

このふたりの反応のすばやさに驚かされるのは、私だけではないと思います。彼らはイエス様が、「私について来なさい。人間をとる漁師にしよう」と招いてくださったとき、すぐに網を捨てて従ったと書かれています。それほど切羽詰って、転職を考えていたのでしょうか?後先を考えずに、あっという間に、網を捨てるという行為が何とも冷静さを欠いているような気もします。それは彼らの生活のすべてだったはずですからね。

しかし、ここに、キリストに従う人たちに求められている姿勢が書かれているように思います。それは「キリストの招きに応え、自分の得意のものであるとしても、一度は、それを手放す覚悟でキリストに従う、キリストの主権を認めつつ従う」という姿勢です。キリストがふたりを「人間をとる漁師にしてあげよう」と招いてくださったとき、ふたりは、新しい仕事、新しい使命として受け取りました。だから、そのためには、キリストと一緒にいて、教えてもらい、あたらしいボスに従うのだという意識の中で、自分の仕事であった漁師の網をいったん、離れる決意をします。

あれとこれと、あの得意な仕事でイエス様のお手伝いをしようという気持ちはとてもすばらしいのですが、イエス様は「ただ、あなたのままで」まずイエス様に従うことを求めているのです。

イエス様が私たちにさせようとしていることと、私がさせて欲しいと願っている手段や方法、内容が違った場合、私たちは、腹を立ててしまうことがあるのです。この立腹感は、主のしもべにはふさわしくありません。しもべとしては、主なるお方と関わることが赦されているなら幸せだからです。できても、できなくても、主のみことばをきき、そこにいることが赦されているなら、何ができるか、できないかで腹を立てる理由はないのです。教会での奉仕はそう考える必要があります。

イエス様こそ主権者なのだと聖書は教えます。彼らは網を捨てなければ、イエス様に従ったことにはならないのです。それは、網を捨てることで、その生活の手段も含めて、イエス様にお委ねするということに通じるからです。イエス様は、あなたをそのままで、その心を求めておられます。新しい使命に導いてくださるとしたら、その必要も能力もきっと道を開いてくださるにちがいありません。イエス様、私はこの方法でしか、従いたくありませんという関わり方は、イエス様の望んでいる関係とは違うのです。私はこういう奉仕しかしませんという考えもイエス様が望んでいるものとは違います。ここに重大な決意が求められます。あなたの主権者は誰なのかという問いかけと応答です。

網を捨ててでも従う価値のある救い主だと、彼らは考えました。みんなが牧師になるわけではありませんし、仕事を辞めるべきでもないでしょう。しかし、ある人に対して、あなたは、網を捨てて私に従ってきなさいと、声をかけている場合もあるかもしれませんね。今までの網を捨て、私が託す網を手にして役割を果たしなさいと言われているかもしれません。いずれにしても、自分でやりたいようにできる生活も楽しいかもしれませんが、キリストに託された役割を果たすという生き方も心が豊かな人生であり、聖書はその道を勧めるのです。

祝福がありますように。

関根一夫

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