本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。

マタイによる福音書、5:1〜3

第848回「幸いです」

有名な「山上の説教」がこの章から始まります。イエス様が弟子たちに語った有名な説教です。しかし、興味深いのはこの説教の内容ばかりではなく、イエス様の教え方のスタイルです。イエス様は「腰をおろして」語っています。つまり、座ってお話をしているのです。弟子たちも座っていたに違いありません。座って何かを話すときには、居丈高に言い放つことが難しいので、いわゆる威圧感はなくなります。目の高さがほぼ同じになるからです。

そのスタイルの中に、イエス様の優しい心が見えるような気がします。威厳のある発言であり、厳しい言葉も出てきますが、そこには人を見下す軽蔑的な態度はまったくありません。本当に大切なことを伝えたいときには、目の高さをあわせ、丁寧に、人を馬鹿にしないで話す必要がありますが、私たちは、どうしても、威張ってしまったり、見下してしまったり罵倒してしまったりして、内容がゆがんだ形でしか伝えられないことがありますよね。目の高さを合わせること、相手に発見させることなどは、伝達の秘訣かもしれません。

山上の説教の最初の言葉は「心の貧しい人々は幸いである」というものでした。ここで言われている「貧しさ」とは「破産状態にある」という貧しさだと聞いたことがあります。自分の心は、破産状態にあり、常に神様の介入や助けがなければ、自分自身を維持することは出来ないとうなづいている人は幸いですとイエス様は教えているのです。私たちの神様への依存度は、圧倒的に大きいのです。神様の愛の支援がなければ、私たちは今日一日さえ生きることはできないのです。それは人間の自然への依存度を考えてもわかります。でも、私たちは、頼らざるを得ないにもかかわらず、反発し、言い訳を言い、素直に「神様、憐れんでください」とか「助けてください」とか言えないことが多いのです。

私たちは、生きているつもりでいますが、本当のところは、生かされているのだと思います。そして、神様は私たちの貧しさを軽蔑せず、むしろ、憐れみ深く応答してくださっているのです。自分の弱さを認めることは簡単ではありませんが、そこに大きな祝福の糸口があるのかもしれませんね。

祝福がありますように。

関根一夫

戻る