人の悪行や人の失態は、簡単に指摘することができ、評論家のような態度で相手を批判することは、私たちの得意とするところかもしれません。さらにいえば、私たちは、自分の非を認めることをしないで、ただただ相手を断罪するという方向に進みやすい傾向があるようです。「自分にも非がある」とする考え方を私たちは嫌います。「自分は間違ってなどいない、悪いのはあなただけだ」と決め付けてしまうとき信頼や和解の道はなくなってしまうことになります。そこに「上下関係」が設定されてしまうからです。
人や組織と「和解」や「信頼関係」を構築しようと思うときには「自分は絶対に正しい、相手だけが絶対に悪い」という想定でアプローチしてはならないということをこのイエス様の言葉から学ぶ必要があるのです。
そもそも断罪する心そのものの中に「目の中の丸太」ほどの諸問題があるのだとイエス様は教えているようです。相手の中に見えているのは「目の中のおがくず」自分にあるのは「目の中の丸太」。もしかしたら、相手のほうこそ、私の「目の中の丸太」を指摘できるはずであるのにそういう自分の問題を把握しようともせず、反省しようともせず、相手の「おがくず」だけを指摘して断罪してしまう心は「愛の心」とは言えません。神様の喜ぶ心とは言えません。
今朝のイエス様の言葉は、当時の宗教家に向けられた言葉です。当時の宗教家たちは基本的には律法主義者、掟主義者であって、自分がいかに戒めを守っているのかを誇りにしていたのです。そして、それができないと目される人たちを断罪していたのです。イエス様は、自分の業績の上にあぐらをかいて威張っている宗教家たちをきびしく批判しているのです。あなたの宗教的ながんばりで「本当に罪はない」と言えるのかと問いただしているのです。掟主義者に対して、自分を正しい、自分には罪などないと考える「根拠」をイエス様は問いただしているのです。
批判がすべて悪だとは思いません。批評も悪くはないのです。問題は「自分には非などない」という自己義認の高慢と「悪いのはあなただけだ」と決め付け、断罪する心、自分を神の座につけてしまう心です。まず、自分から「神様、罪深い私をあわれんでください。」という祈りをささげること、そこからすべての平和や和解が始まるような気がしてなりません。
祝福がありますように。