本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


夕方になると、人々は悪霊に取りつかれた者を大勢連れて来た。イエスは言葉で悪霊を追い出し、病人を皆いやされた。それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。
「彼はわたしたちの患いを負い、わたしたちの病を担った。」

マタイによる福音書、8:16〜17

第851回「素直に喜べない」

この章には、イエス様による奇跡の出来事が複数書かれています。それらの記事は、イエス様が神様から遣わされた救い主であること、さまざまな悪霊や病の力よりも圧倒的に力があることを示すためのものであり、同時に、それらの出来事が旧約聖書に予告され、預言されていた救い主の働きそのものであることを示すためでもありました。

イザヤ書53章は有名な「苦難のしもべ」の預言の箇所ですが、マタイは、その箇所に書かれている僕の姿こそイエス様の姿なのだと教えています。イエス様は、私たちの痛み、病気、悩み、罪の咎め、罪の裁き、などを自分の心とからだに背負い、それらを解消、処分、清算するためにこそ、来られたのだと聖書は教えるのです。イエス様のことばには、そういう権威がありました。その存在はまさに、罪を処理するために十字架にかかるためのものでした。それは最初からマタイの福音書に明言されていました。イエス様は私たちのために苦しみ、打たれ、担い、死ぬために来られたのだと聖書は教えているのです。

しかし、不思議なことに、周囲の人たちは、イエス様の奇跡を見たからといってイエス様を歓迎するかと言うと、必ずしもそうではありませんでした。この章の最後の部分には、イエス様が悪霊を追い出して、ある人たちが正気に戻っているにもかかわらず、町の人たちがイエス様のところにやってきて、「この町から出て行ってください。」と申し出る場面が書かれています。神様のみわざを喜べない空気というのが、人間社会の中にはあふれているのかもしれませんね。

人間が自分で支配し、コントロールできる神様であれば歓迎されるのでしょうが、自分たちを支配する神、自分よりはるかに気高く、はるかに強い神様の存在を私たちは、頭の中では必要としているのに、心とからだでは否定し、追い出してしまっているということがあるのかもしれませんね。考えさせられますね。

祝福がありますように。

関根一夫

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