イエス様の目から見て、群衆は、「飼い主のいない羊」のようだったのです。その中に私もあなたもいたことになりますね。羊は、どう考えても、面倒見の良い羊飼いにケアされなければ、幸せになれません。
それは私たちも同じことです。イエス様の見た人々の間には、宗教指導者に対する幻滅や国政に対する落胆失望があふれていたようです。そういう失意の中に生まれてくる怒りは、いつの間にか、神様への怒りに発展してくる要素をもっています。誰に従っていけばよいのか、誰を信じたらよいのか、何を信じられるのか、どの教えが真実なのか・・・これらの問いは、現代を生きる私たちの中にある質問でもあります。
聖書は、イエス様のことを「良い羊飼い」と教え、イエス様自らが、それを宣言しています。つまり、弱り果てている羊、落胆している羊に対して「私が良い羊飼いだよ」と語っているのです。人生におけるさまざまな失望落胆に対して、イエス様は羊飼いのように、私たちへのケアを提供してくださいます。
問題が嘘のように、あっという間に解決しますということはないかもしれませんが、でも、間違いなく、このお方の「憐れみの心」は、私たちの心に届きます。そして、一緒に喜び、一緒に泣いてくださるお方として「心が響き合う関係の中に」いてくださいます。問題は、私たちが誰に属している羊なのかということかもしれませんね。
祝福を心から祈ります。