本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。

マタイによる福音書、10:42

第853回「思いやり」

私たちは誰かに親切にすることとか、愛することとかを考えるとき案外「大きいこと」をしなければならないような錯覚をもってはいないでしょうか。そんなことをしても何の役にも立たないと、自分のできる小さなことを実行することもなく、先送りにしてはいないでしょうか。

今朝のイエス様の言葉は、とても大事なことを教えています。その人がイエス様の弟子だと知って、コップいっぱいの冷たい水を差し出すことが出来た人には、報いがあるのだというのです。別に金一封でなくても、その人にパソコンやカメラを買ってあげなくても、コップいっぱいの冷たい飲み水を提供できたら、神様からの報いはあるのだというのです。

しかし、こういう小さな行為は、相手に対する「思いやり」の心がないと、気づくこともありませんよね。相手がのどが渇いているのかおなかが空いているのか、そういう見極めは相手のことを少しでも考えていないとなかなかできるものではありません。何かを思い込んで、相手のことを考えることもなく、ただただ機械的に何かを提供しても、それは「小さな親切、大きなお世話」と言われてしまうことになるでしょう。機械的な奉仕ってイヤだなあと思います。

飲み水をコップ一杯「どうぞ」と提供する心は、相手に笑顔で「おはよう」と挨拶する心とも通じているかもしれません。「どうもありがとう」「ごめんなさい」という言葉も同じくらい大切な言葉でしょうね。相手に対する感謝の心、祝福の心、支援の心の表明です。そういうことに気づく心を持ちたいものですね。

コップ一杯の水を出してもらうことばかりを求めるのではなく、自分のほうからそれを提供できる心を育てたいものですね。

祝福がありますように。

関根一夫

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