本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

マタイによる福音書、11:27〜28

第854回「やすみ」

マタイ11章28節の言葉は、おそらくヨハネ3章16節に続いてよく知られている聖書の中の言葉だろうと思います。大変希望に満ちた、慰めに満ちた言葉です。重荷を負っている私たちに休みが与えられるというのですから。

ここでも「休み」という言葉は「弦をゆるめる」という意味があると聞いたことがあります。ギターの弦などを緩めてあげないと、ギターは傷んでしまいます。弦も張りっぱなしだと音がだんだん新鮮ではなくなってきます。私たちも緊張しっぱなしではストレスが溜まりすぎますし、頑張って休みなく働きっぱなしですと、体力はぐっと落ちていき、疲れてしまって免疫力も落ちてきます。

疲れ、重荷、ストレス、さまざまな事柄に対して「やすみ」が提供されなければなりません。イエス様は、私たちの心の奥底に存在する「罪や咎めからの疲れや重荷」「精神的、霊的な行き詰まり感からの疲れ」そのほか様々な重荷や痛みを癒してくださいます。それらが肉体に身体症状を呈することもよくありますので、健康にも大いに関係してきますよ。

ところで、イエス様が自信をもって「私が休ませてあげよう」と宣言なさっておられる根拠もここに書かれています。それは「父なる神様に、権限を託されている」からなのです。イエス様は父なる神様から「天においても、地においても、一切の権威を委ねられている」存在なのです。だからこそ、私たちのどんな重荷についても休ませ、癒す力と権限があるのです。イエス様は「主」なのです。

実は、この「主」であり「権威者」であるイエス様をマタイは紹介しようとしています。だからこそ、癒しや奇跡的な出来事がたくさん紹介してあるのです。イエス様は「主」「主権者」なのだと聖書は教えています。重荷や疲れを感じることは当然です。
悩みや涙は誰のでもあるものです。休ませてくださる「主」を知っているかどうか、そこに違いが出てきます。

違いはそれだけなのかもしれません。「重荷の軽減を願う」だけではなく、イエス様を「主」なる存在として「主権者」として認め、歓迎するという意思表示が必須です。それを聖書では「信仰」と呼びます。

祝福がありますように。

関根一夫

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