イエス様による癒しの奇跡がここにも書かれていますが、興味深いのはイエス様が「御自分のことを言いふらさないようにと戒め」ておられることです。奇跡というすばらしい出来事であるにもかかわらず、御自分のことを「言いふらさないように」とイエス様が語っているのはなぜなのでしょう。いくつかの理由があると思います。ひとつには、イエス様は、病人を癒すためだけのために地上に来られたわけではないからです。そのことだけで超多忙になり、十字架への道を進めなくなるという危険がそこにはありました。
また、「言いふらす」という作業には必ず尾ひれがつき、正しくイエス様の心が伝えられないということへの懸念もあったと思います。うわさ話のように、部分的なことや枝葉の部分だけが誇張されて語られると、イエス様の人格自体が全く本物と違う存在として紹介されてしまうことになる恐れがあります。しかも、話している人の自慢話に発展してしまうことがよくあるのです。どんなことであれ、うわさの発信源にはなりたくないですね。噂としてではなく、事実として、自分の出来事として伝える作業は簡単ではありません。聞いた人がそれを噂として広げてしまう心配があるからです。
あまり噂を広げないように注意しながら、本当にしなければならない自分の役割を果たすこと。この姿勢はイエス様の中には徹底されています。人をうわさで操作しないように注意すること。どこで、誰に、何を語るのか、そういう日常的なことって案外重要な要素を含んでいますよね。
良かれと思ってあることないこと、何でもぺらぺらしゃべってしまうと、それこそ、あなたが発信源となって、とんでもない事態を招くことにもなりかねません。何でも口にしてよいはずがありません。言うべきときに言えればそれで良いのです。
イエス様に愛されて生きていることを喜んでいるなら、それを言いふらすのではなく、むしろ、口数を少なめに生きることのほうが正しくイエス様の出来事として伝わるのかもしれません。人に優しく生きること、人の話を聞けるよう心を向けること、教えたがり屋にならないこと。こういうことって本当に大事な、そして私たちが学ぶべき基本的な姿勢かもしれません。しゃべって、言いふらせばよいのだということはありません。口下手のままでも大丈夫です。あなたの中に変化が見えたら、人があなたに質問してくることになるでしょうし。
「口から出る言葉」を時々、本気で吟味し反省し、再検討する余裕が必要です。案外、つまらないことを言いふらして評判を落とす結果になっているかもしれませんよ。謙遜に、丁寧に、言葉数を少なく、それは私たちには大切なレッスンです。
祝福がありますように。