本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


弟子たちは言った。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません。」イエスは、「それをここに持って来なさい」と言い、群衆には草の上に座るようにお命じになった。そして、五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて弟子たちにお渡しになった。弟子たちはそのパンを群衆に与えた。すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二の籠いっぱいになった。食べた人は、女と子供を別にして、男が五千人ほどであった。

マタイによる福音書、14:17〜21

第857回「わずかなものでも」

大人の男の人の数だけで5千人、おそらく女性と子供の数を加えたら倍くらいになったのではないかと言われていますが、それだけの人たちがイエス様の後を追い、説教を聴いていました。そして時間がたっていき、おなかがすいただろうから、あなた方で、それらの人たちに何かあげなさいとイエス様が弟子たちに言いました。その後の会話と出来事が今朝の聖句です。

そこには、5つのパンと2匹の魚しかありませんでした。少年のお弁当です。5千人に対して「5つのパンと2匹の魚」では、どうすることもできない、何の足しにもならないと感じるのが普通かもしれません。でも、イエス様は、「それをここに持ってくるように」とお命じになり、奇跡が起こります。

手元にあるわずかなものを粗末に取り扱わないで、イエス様のところに持っていったらイエス様はそれを何倍にもして他者を祝福するためにお用いになるという教訓を含んだ弟子たちに対する大事なレッスンでした。「主よ、私の手にあるものは、わずかなものですが、どうぞ、他者の心とからだを潤すために用いてください」と差し出す心は尊いものです。それが時間であれ、献金であれ、労力であれわずかばかりという思いを持ちながらも、イエス様にお渡しする心は大事なものなのです。あなたの持っている「小さい」もの、「わずかなもの」でも、イエス様の手の中で何倍にも膨らんで、やがて5千人を養うほどのものになっていくのです。

世界の中の自分、いいえ、東京の中の自分、いいえ、この町の中での自分を考えても小さな小さな存在でしかありませんが、私自身を「イエス様、どうぞ、誰かのお役に
立てますように」と捧げていったら、おそらくいつの間にか5千人以上への祝福となるのかもしれません。目の前の数字に圧倒されて、引っ込めてしまえば、それで祝福は止まってしまうのかも知れません。この「日々の聖句」も最初は、5年以上前、四国でのキャンプで、ある重度の身体障害者の方の「先生、ネットチャーチをやってください。説教をメールで送ってください、そしたら私は毎日でも読めますから、私は寝たきりでテレビの操作もラジオの操作もできませんがコンピュータだったら、自分で操作できるので、メールなら読めるんです」という言葉に触発されて、聖句だけを送っていたのですが、だんだん希望者の方々が増え、今では毎日1000人以上の方々の手に届いています。そして、内容も少しづつ変わり今の形になってきました。延べ人数ではずいぶん大勢の方々に読んでいただいていますが、私にとってはその労力は「5つのパンと2匹の魚」程度のものです。イエス様がそれを何倍にもしてくださったのだなあと実感しています。

手にある小さな祝福を提供し、分かち合う心をイエス様に託したら、きっと自分でも考えられない広がりになるのかもしれません。そもそも、そんな広がりさえも考えていないで、やってきたことですが、振り返ると、パンの奇跡と同じことなのかもしれないなあと思います。毎日休まずできていることも、イエス様の助けによるものです。聖書の言葉を配信させていただけることは、私には、一番喜ばしい仕事であり、一番楽しい作業です。辛いと思ったことはありませんのでご安心くださいね。 ほんのわずかな時間を割いているだけのことですから。

「一度限りの人生ですから、私に出来る小さなことが、あなたのお役にたつのなら、何でもさせてください。」このパンの奇跡を読むたびに思い出す言葉であり聖句を配信しながら、時々考えている言葉のひとつです。何だか自慢話みたいになってしまいました。ごめんなさい。

祝福を心から祈ります。

関根一夫

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