私たちにとって、必要な「交わり」「教会」「友達」「きずな」の原点がここにあるように思います。一緒に祈ることの出来る、もうひとり、か、ふたりの人が探せたら、そこにイエス様も一緒にいてくださるわけですから、人生がずいぶん豊かになります。
私たちはどこかで「関係的充足欲求」というのを持っていて、誰かに愛されたい、誰かに見ていてもらいたい、誰かと一緒にいたいという思いが満たされないと幸福感を味わうことは難しいといわれています。
イエス様は「ふたりが」とか「ふたり、または三人が」と言っていますが私たちが安心や幸福を味わえるのは、確実な「きずな」を味わえたとき、祈りあえる人、心を響き合う人との交わりを味わえたときだと思います。神様に友達を大勢与えてくださいと祈ることは良いことですが、大切なことは、人生の中でほんの数人でも、心を分かち合える人があなたと一緒にそこにいるなら、本来はそれで、安心、感謝できるはずだということを知っておくことかもしれません。
どんなに大勢集まっている教会の中でも、その中に居るふたり、三人の人と心を分かち合うことができ、きずなを深めることができたら、それだけであなたは宝物を手に入れたことになるのです。神様はその交わりの祈りに答え、イエス様はその真ん中にいてくださいますから。ひとつの交わりで、その絆を深めることができると、神様は、他の人たちに対しても支援的な助力への道を備えてくださるでしょう。小さな別の交わりが生まれる可能性があります。それが教会の健全な成長の道なのかもしれません。
あなたと心を分かち合える人が、誰かひとりでもいたら、さまざまな困難に耐えることができるようになります。「人はひとりでいるのは、よくない」のです。「孤立」は危険です。しばしの孤独は悪いものではありませんが、「孤立」は精神的に健全ではありません。心を開ける人が与えられるよう祈ってみたらいかがでしょう。神様からの祝福として教会に大勢人が集まることはあるかもしれませんが、私たち個人個人に必要なのは、大勢の人たちに囲まれることではなく、ふたり、三人との「きずな」を深めることにあるようです。
祝福がありますように。