当時の社会では一デナリオンという金額は一日分の日当として理解されていました。この箇所のお話は、朝早い時間に労働者を探しに行った主人が夜明け過ぎ、9時、12時、3時5時にそれぞれ広場で何もすることのない人を見つけ、ぶどう園での仕事につかせます。そのとき、日当の約束をするのですが、気前の良い主人はそれぞれに一デナリオンの約束をするのです。ところが、仕事が終わり支払いのときが来て、朝から働いていた人が夕方からの人と日当が同じ1デナリオンであることに腹を立てるのです。気持ちとしてはわかりますよね。
しかし、そこに問題があるのです。それぞれの労働者は、自分が一デナリで雇われるということについては最初満足していたはずです。それは妥当な金額ですから。でも、他の人のことが目に入り、気になりだすと、自分の労働や存在が低く評価されたような気分になってしまい、同じ金額だなんて納得できないと怒り出すわけです。
もし、この主人が声を掛けてくれなければ、広場でなにもせず一日をぼーっとしていただけだったはずなのに、仕事が与えられ、一デナリオンという約束にも納得して働き始めたはずなのに、仕事が終わり、約束された日当が時間の短かった他の人と同じであることが赦せないのです。
ふと、考えました。もし、最初から働いていたのが私で、5時から働いているのが私の息子で、仕事終了後同じ1デナリオンを受け取ることができたら、私は大喜びできるけどなあ。もちろん、その逆でも息子は喜んでくれると思うけどなあ。と。もし、私の家族や友人が、3時や5時からの労働者で、私が朝からの労働者で同じ日当を受け取れるとしたら私は喜べるなあと感じています。私自身が報酬を受けられないわけじゃないんですものね。同じ祝福を受け取って欲しいと思います、心からそう思います。
でも、その人が私にとって誰なのかという視点次第で、評価が変わるかもしれませんね。年齢が上がってくると、ねたむ心が元気になることが多いようなので、私も気をつけようと思っています。
祝福がありますように。