イエス様はこの章の中で、いわゆる世の終わりについて語っています。悲しいことですが、この世界には終わりがあるのです。私たちのそれぞれの人生にも終わりがあります。もちろん、聖書はその先に希望があることを教え、絶望すべきでないことを教えています。世の終わりの先にも、自分の肉体の終わりの先にも希望があるのだと教えているからこそ、終わりの時に備えて用意をするように、驚き慌てふためかないようにとイエス様は警告しておられるのです。
イチジクの葉は季節のしるしとしてここでは書かれています。それと同じように、終わりの時代の兆候がいろいろあるとイエス様は教えました。そして、ご自分がもういちど、この世界に戻ってこられるときがあるのだとも語っています。私たちにとって、自分の終わりは死と結びつけるわけですが、それだけでなく、さまざまな終わりの時があります。途中で、旅程を中断しなければならなかった良いサマリア人のように、人生には終わりがあるし、介入や中断もあります。
イエス様は、用意しておきなさい。と語るのです。何が起こっても驚かないように、あわてないように、終わりの日に備えて用意をしておくように。取り去られる日があるのです。中断せざるを得ない時があるのです。人生はなんでもかんでも自分の思いのままにはすすみません。だからこそ、あまり「固執」しすぎると、タイタニック状態になり沈んでしまうことになります。不沈神話を信じ込み、氷山の現実よりも沈まないのだという情報を信じて舵を変えなかった船長の責任は重大です。私たちはそれぞれに人生を神様に託されている船長のようなものです。港に無事帰還したら、船を下りるのです。それは順調な旅だったかもしれないし、嵐で避難の寄港だったかもしれません。しかし、降りる用意はいつでもしておく必要があるのです。そして、先に進む意欲もまた大事ですね。
終わりがあります。そして、その先には、それに続く希望もあるのです。終わりを恐れず、準備が必要です。そして、今ある状況に無理やり固執せず、しっかり状況を見極める能力や知恵が必要ですね。神様、どうぞ、知恵を与えてくださいと祈ることからはじまるのでしょうね。終わりの準備が。
祝福がありますように。