この章には、用意をしておくこと、勤勉であること、神様からの評価などについての教えが書かれていますが、上にあげたのは、神様に喜ばれる生き方をしている人とは誰なのかという教えについての一部です。飢えているとき食べさせ、渇いているとき飲ませ、宿を貸し、着せてあげ、お見舞いしなどと今で言えば、総合的な福祉そのものを実行している人が評価されています。単純な善意だけでは、なかなか、人を励ましたり、慰めたり、支援したりできません。どこかで「心が燃やされる」何かを受け取ってこそ、できるのかもしれません。
でも、興味深いのは、ここで王から評価されている人たちの応答です。「いつ、王からの評価を受けるようなことをしたでしょうか?」という答えがなされています。自分たちの善意あふれる良いわざを、彼らは自分で覚えていないのです。もしかしたら、自分たちにできると思われるほんのわずかな善意を積み重ねてきただけなのかもしれません。自分で「大きなことをやった」という意識もなく、他者を祝福できているとすれば、それは本当に心が温かくなる出来事なのだと思います。
じつは、これとは対照的に、この文章の後半では「私は、これをやってきました、あれもやってきました。いつやらなかったことがあるでしょう」と自信満々に答えている集団に対して「のろわれた者ども」という厳しい判決がくだされているのです。そういう彼らは、きっと、「大きなこと」「目立つこと」には常に参加していたのかも知れません。でも、目の前の、日常的な、小さなことについては全く心を向けることもなく、温かい言葉をかけることも、自分のパンを分けることも、お皿を洗うのを手伝うこともせず、ただただ表面的な、対外的に人からのほめ言葉をもらえそうなことだけに心を向けていたのかもしれません。何だか自分のことを言われているような気がしますが・・・。
人は外の形を見るものですが、神様はその心を調べます。そして、その心を評価なさるのです。小さな存在、身近な存在に、何気なく温かい心を向け、温かいことばをかけることができる、そんな生き方をしたいものだなあと思います。
祝福がありますように。