本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!


一人の女が、極めて高価な香油の入った石膏の壺を持って近寄り、食事の席に着いておられるイエスの頭に香油を注ぎかけた。弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「なぜ、こんな無駄遣いをするのか。高く売って、貧しい人々に施すことができたのに。」イエスはこれを知って言われた。「なぜ、この人を困らせるのか。わたしに良いことをしてくれたのだ。

マタイによる福音書、26:7〜10

第869回「思いやり」

イエス様に香油を注いだ女性が弟子たちに怒られ、無駄遣いと決め付けられ、そこにあるイエス様への純粋な愛をまったく考えてもらうこともできず、困惑しています。ただ、イエス様は、彼女の行為を肯定的に評価し、彼女は私に良いことをし、私の葬りの準備をしてくれたのだ、世界中でこの人のしたことは記念として語り伝えられるだろう」と仰いました。彼女が、イエス様の死が間近いことをどれだけ理解していたかわかりません。弟子たちから見れば確かに無駄に見えたかもしれません。でも、イエス様はこの人の行為を喜ばれました。これは、記念として覚えておくべき出来事だという理解です。

弟子たちは、頭から決め付けて「こんな無駄」「貧しい人たちに施すことができたはず」と呼びました。確かにそうかもしれません。別にイエス様が求めていたことではありませんし、香油は高く売れただろうと思います。しかし、善意、愛、優しさ、にあふれて、イエス様からの懇願がなくても、他者からみたらもっと別な使い方があると指摘されても、イエス様への祝福を届けること、そこに「配慮」「気配り」「思いやり」が見事に表明されています。そして、それは私たちの日常における「他者への思いやり」についても通じているかもしれません。

別に頼まれてもいないし、懇願もされていないし、別の使い道もあるしという前提をいつの間にか作り上げ、他者への支援や祝福を届けるのを、結局やめてしまったり、自分のために使ってしまったりすることって多くないですか?弟子たちが、それだけの香油を持ってたら、貧しい人に施すために売ったかなあとふと、思います。身近な人の必要に気づくことなく、人の痛みに鈍感なままだったら、世界に対して大きな慈善を行ったとしても、どこかに、嘘があるような気がしてなりません。ちょっと言い過ぎかもしれませんけど・・。

祝福がありますように。

関根一夫

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