この章の中には、イエス様の十字架についての記述が書かれています。そして「見捨てられる」という孤独の苦しみを徹底的に味わっているイエス様の姿が書かれています。章を読んでいくと、まず、ローマの兵隊たちに徹底的に侮辱され、道を歩いている一般人からもののしりのことばをかけられ、宗教家たちからも侮辱され、隣に十字架につけられている犯罪人からもののしられています。
当時の社会を構成するすべての人たちから見捨てられ、孤立し、孤独をあじわう痛みのすべてを自分の身に引き受けてくださっている救い主の姿がここにあります。人に捨てられる、人に軽蔑される、あなたはもう不要と言われること、いじめ、中傷、そういう出来事は日常茶飯事ですが、イエス様は人に見捨てられ、傷つけられるという孤立と孤独の極限を味わっておられます。それは、私の孤独を理解するため、あなたの孤独や孤立の痛みを理解するために他なりません。「私には、あなたの孤独の痛みがわかりますよ」とイエス様は言われるのです。
そして、そういう孤独を背負いながら、イエス様はさらに深刻な孤独を通過します。それは、私たちすべての身代わりとして、父なる神様からのろいを受け、裁かれ見捨てられるという霊的な痛みです。キリスト教は愛の宗教と言われますが、まさに、イエス様のこの十字架における身代わりの苦難の中に、神様の愛が表明されているのです。本来は、罪ある私が神様から見捨てられるべきだったのですが、イエス様がその身代わりになって裁かれ、いのちの源なる神様から断罪されてくださったのです。
こういう孤立感を私たちは全く理解できません。人に捨てられるということなら、誰にでも少し経験があるでしょうが、神様から見捨てられ、裁かれるという経験は、私たちには未経験の出来事です。でも、この苦難があったからこそ、神様との関係における私たちの罪の赦しが完了するのです。孤独を担ってくださるイエス様、罪を担い裁かれてくださったイエス様、このお方こそ救い主なのだと聖書は教えるのです。
そして、このお方こそ、私たちの孤独を理解し、ともに歩んでくださる救い主なのです。
祝福がありますように。