本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!

ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

マルコによる福音書、2:16〜17

第873回「救いが必要です」

当時の宗教家たちの目にはイエス様の言動は奇異に映っていたようです。というのも、イエス様は既成の宗教家とは服装も違うし、神学校の同窓生がいるわけではないし、それでいながら、大勢の人たちが集まるばかりでなく、イエス様ご自身が社会における底辺の人たちに近づき、彼ら、罪びと呼ばわりされていた人たちと一緒に食事をしたり神様の大事な教えを伝えたりしていたからです。

当時、社会的に恵まれていない人のほうが圧倒的多数であり、宗教指導者層は少数でありながら、社会的な地位も金銭的な豊かさもまるで社会の独裁者のような勢いをもっていたのです。そして、彼らは少数でありながら、特権階級にあぐらをかき、自分たちこそ完璧な神の民なのだと自負していました。彼らには、社会的弱者に近づいたり、支えたりしようという意識はありませんでした。異邦人や罪びとと呼ばれる集団は社会から抹殺されてもかまわないというような空気さえもっていたようです。だからイエス様がそういう人たちと交流を持ち、そういう人たちと食事まですることに腹を立てていたのです。しかし、イエス様にはきちんとした哲学がありました、いいえ、愛がありました。救いを必要としている人たち、それを自覚している人たち、今のままでは心が死んでしまいそうだと自覚している人たち、そういう人たちのためにこそ
私は来たのだと宣言なさっているのです。

イエス様がこの地上に来たのは、正しい人をさらに正しくするためではなく、むしろ、罪人、神様に反抗する心を持ち、神様を愛することも、自分を愛することもできず、神様を喜べずにどんどん暗闇に引かれていってしまいそうな、不安と不信でいっぱいになっている私たちのためにこそ、来てくださいました。闇に光りをもたらすために。不安を確信に変えてくださるために。自分は完璧と考えている人にはイエス様の力も助けも不要なのです。でも、イエス様は、私にはあなたの助けが必要です、あなたの救いが必要ですという心をもっているなら、イエス様はまさに、そういうあなたのためにこそ来てくださいました。

マタイによる福音書にある有名な言葉を最後に紹介しておきますね。
「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。」マタイ11:28-29

祝福がありますように。

関根一夫

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