安息日の規定は当時の人々の生活をずいぶんと縛り付けていたようです。安息日には、これ以上重いものは持ってはいけないとか、あそこまでしか歩いてはいけないとか、基本的には安息日は神様を礼拝し、神様の前に休息する日のはずでしたのに、規則づくめの日になっていました。ですからイエス様が手の不自由な人を前に、人々に安息日に善い事を行うこと、いのちを救うことはどうなのかと問いただしても答えは
ありませんでした。イエス様は戒めの奴隷となり下がり、本当に神様の心を理解できなくなっている人々の現状を悲しみ、怒り、手の不自由な人を癒します。
安息日には、いのちを楽しみ、病は癒され、心は感動し、生かされていることを感謝してよいのだということを教えたかったのです。そもそも、この人の手が癒されたことを、会堂にきている誰も喜ばないというのは異常ですよね。喜ばないどころか、宗教家たちは、こそこそと出て行って集会を開き、どういうふうにイエス様を殺そうかと相談を始めています。手の不自由だった人が癒され、回復し、神様のみわざが表されているのにその働きを無視し、自分たちが守ってきた伝統を破っているからということで
殺すことを考えるようになる。これは、極端な排他主義であり、律法主義者の世界にありがちな出来事です。理由は、自分たちの枠にくくることができないというものです。そこには神様をさえ規定し、神様でさえ身動きがとれないような不自由を作ってしまっている何かがあるのです。規則の奴隷状態がそこにあります。
それにしても、人は簡単に人を殺そうとかんがえるものですね。愛の心が欲しいですね。癒された人によかったねえと言える心が欲しいですよね。病者に向かって「お大事に」って言える心が欲しいですね。安息日に、「神様、私を人を生かすためにお用いください」と祈れる人になりたいですね。イエス様を殺そうなどと相談するのではなく、イエス様を自分の人生にどのように歓迎しようかと考える人になりたいなと
思います。
祝福がありますように。