イエス様の有名なたとえ話です。自分のところに届いた種はいったいどういう環境に
蒔かれたことになるのかなと考えるのはよいことかもしれません。私たちの心には、それぞれ道端、石ころだらけ、茨だらけ、よい土地のどれもあるような気がします。日替わりメニューのように、自分の心の「みことばへの想い」が変わることがあります。いつでも良い地に落ちて欲しいけれど、冷静に考えると石ころばかりの心で礼拝に出ていたり、茨の心でこういう聖句の配信を読んでいたり・・。
聖書の言葉自体は何も変わっていないのに、そのときの心でずいぶん内容が深く心に届く場合と、無感動のままの場合とがあります。聖書の言葉に問題があるのではなく、聞く人の心ひとつで、良い地になったり茨の生えている地になったりするようです。そして、結果は天と地ほどの違いが生じます。問題は、私たちが耳にした「みことば」「蒔かれた種」をどのように聞くのか、どういう姿勢でみことばに向かうのかというところにありそうです。
私は、聖書の言葉が、私たちの生活の中に光となり、慰めとなり、指針となり、あるいは希望への道しるべとなるようにと願いつつ自分への自戒も含めて御言葉の配信をさせていただいています。みことばが心に届いたことで、希望が持てるようになったと言えるなら、それは良い地の心でみことばをうなずいたからなのでしょうね。御言葉は、私からだけではなく、いろいろな方法で心に届けられます。それら一つ一つのできごとは、私たちを生かそうとする神様の配慮によるものです。それらを、心を開いて受け取ることができますように。いつしか、みことばが、すとーーんと心におさまる時がくると思います。
祝福がありますように。