本物の牧師が語る聖書からのメッセージ!

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。

マルコによる福音書、5:34〜36

第876回「恐れるな」

この章にはイエス様の奇跡が記録されています。今朝の箇所は人間的には興味深い箇所です。ヤイロという会堂長の幼い娘さんが病気で危篤状態になりました。ヤイロはイエス様を探し出し「どうぞ助けてください」と自分の家に連れてこようと自ら迎えに行き、イエス様が了解して家に向かいます。ところがその途中で、12年間もの間出血が止まらず、医者に行って財産も使い果たしてしまうほどのことをしても治癒されることのなかった女性が、イエス様の衣服のすそに触れ、不思議にも癒されるという奇跡が起こります。そして、イエス様はその女性がどこにいるのか、足を止め、彼女と言葉を交わします。

それを見ていたヤイロの心境はどうだったでしょう。時間が気になっていたでしょうね。そうこうするうちに、ヤイロの家から使いの者たちがやってきて、彼に言います。「お嬢さんは亡くなりました、もう先生を煩わすことには及ばないでしょう」もし、あなたがヤイロの立場だったら、どう感じますか?自分の娘を癒してもらおうとイエス様を見つけ、OKも取り、家に向かっている間に別の人の癒しに遭遇し、時間がどんどん過ぎていき、娘が死んだことを聞かされる。人生には、人にとっては良い事が起こり、自分だけには悪いことが起こるような気持ちになることがありますね。自分だけが取り残されてしまったような気持ちになることってありますよね。この人がいなければ、もっと順調にことが進んだだろうにと思えるようなこと、案外あるものです。

しかし、イエス様は、そのことをご存知でした。すぐさま、ヤイロに声を掛けます。「恐れることはない。ただ信じなさい。」イエス様が一緒にいてくださるはずなのに、途中で頓挫してしまったような出来事に遭遇したとき、イエス様は「恐れるな、ただ信じなさい。」と言われます。

イエス様が弟子たちと一緒にヤイロの家に行くと、人々は取り乱して泣いていました。しかし、イエス様は、その娘さんを生き返らせ、彼女は息を吹き返すのです。

ふと、考えました。
人がイエス様によって癒され、励まされることを喜ぶことができるだろうか?それによって自分への祝福の時期が遅れることがあるとしても、喜ぶことができるだろうか?イエス様が「恐れることはない、ただ信じなさい」とお命じになったとしても、それを素直に信じることができるだろうか?いろいろなことを考えさせられる箇所です。その結果、ヤイロの娘は生き返ります。絶望的に感じる状況の中にも、イエス様のいのちと希望は届きます。信じるものになりたいですね。

祝福がありますように。

関根一夫

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