イエス様に従って歩む道の困難が教えられています。その道は、自分を捨て、自分の自我に対して否というような決断の日々であり、十字架としてしか考えられないような苦難や困難、恥などを背負いつつイエス様をあてにして生きること。格好がよいとか、悪いとか、人生楽ができるとか、できないとか、そういうことは関係なく、与えられた道として淡々と福音を自分の糧とし、自分の分かち合うべき喜びとしながら生きること。人を生かすことを自分の心としながら生きること。
そんなことを考えていると、ため息しか出てこないような気分になりそうですが、新約聖書でのイエス様の描写の中に、一度も「笑った」という言葉が出てこないほど、緊迫した厳しい、いのちがけの生活を強いられた、イエス様とお弟子たちのことを思うといつもへらへら笑いながら、泣き言を言い、愚痴をこぼして、友達さえへこませながら、それでも生きていけている現状を「めぐみによって」生かされていると感じます。
やる気になるとか、ならないとかではなく、召されていることを心から感謝し、今日を丁寧に生きるだけなんだなあと思います。今朝もみことばを感謝しています。
祝福がありますように。