昨日に続いて、今朝も「仕える者」という姿勢が書かれています。マルコによる福音書は「しもべなるイエス様」について書いてあることを考えると、この箇所はとても重要な意味があります。
イエス様ご自身が「仕えられるためではなく、仕えるために」この地上に来られしかも罪の赦しをもたらすために「自分のいのちを提供する」ために来たのです。私たちは、この「苦難のしもべ」に似た生き方が求められています。今日、誰にどのように仕えるのか、今日、誰に何を提供するのか、その日、その日によって考えなければならないでしょうし、状況は常に同じではありませんから、祈りながら教えてもらう必要があるのですが、基本的な姿勢は「しもべとして生きる」というのが原点です。もちろん、こういうことは「人に良いように利用され」てしまうこともあるでしょうし、報いや評価などまったく無縁になることもあるでしょうが、イエス様は、そういう形で愛をお示しになりました。親は子供に、この姿勢をある程度見せながら生きているかもしれませんね。
私がこういう生き方ができているかどうか、ということを悩む前に、イエス様は私に対して常にこういう生き方で近づいてくださっているということを心に留めることが大切なのだと思います。自分はイエス様に遠いけれど、イエス様はきわめて近くに来てくださっていることを感謝できる者でありたいですね。
祝福がありますように。