神殿の中に、異邦人の庭と呼ばれる外庭があり、ユダヤ人以外の巡礼者はそこで手数料を払って両替をし、宮に税金を納めました。さらには、そこでいけにえの鳩を買わなければなりませんでしたが、その値段は町での値段の数倍だったとも言われています。しかも、その外庭をユダヤ人たちは、異邦人にとって大切な礼拝の場所と理解せず、たんなる通り道として使っていました。ですから、本来礼拝するための場所でありながら両替人や商売人の声に邪魔され、場所も脅かされ、そのうえ、ユダヤ人たちが通行していますから落ち着くこともできず、「礼拝の場所」としての利用が難しくなっていました。
イエス様が憤りを覚え、暴力的にさえならざるを得なかった根拠はそこにありました。商売や通行で異邦人の礼拝を著しく妨げていたからです。しかもそれを宗教家たちが見てみぬ振りをしていたのです。「すべての国の人の祈りの家」それが神殿のそもそもの存在意義でした。イエス様は神殿を「わたしの家」と呼びました。
礼拝が妨げられることをイエス様は憤りました。その心を私たちはしっかり覚えておくべきなのだと思います。イエス様は、礼拝者を求めておられます。礼拝が妨げられることに心を痛めておられます。私たちの逃げ場は、「礼拝」にあるのです。そこに心の回復があるのです。
祝福がありますように。