私たちは自分の人生における「時」について、実は、ほとんどわかっていません。自分の会社がどうなるのか、自分の国がどうなるのか、いくらかの数字を根拠に推測で先を考えることはできるとしても、決定的な「終わりのとき」や「いつ何が起こるのか」などについては把握することは困難です。ましてや、「この世の終わり」とか「キリストの再臨」などについては、予測しようと思っても、とても私たちの見極め能力だけでは特定は不可能です。この章には80年も掛けて完成された神殿が崩壊してしまうという予告や世の終わりの時についての預言が書かれています。もちろん、自分のいのちの最後ということも、その人にとっては「終わりのとき」ということになります。それまたいつになるのかわかりません。
イエス様の警告は「気をつけて、目を覚ましていなさい」というものです。最後の日が必ずくるので、それまでの間、慎み深く、丁寧に、希望をもって生きることを貫くように勧めています。ただ、聖書によれば、「終わりの日」を希望を持って迎えられる人と、その日を絶望的な恐怖感で迎える人とが存在しますので、キリストを信頼して、永遠のいのちを得るように、希望をもって「世の終わり」とその先にある「新しい天と新しい地」とを受け継ぐことができるようにと信仰を勧めているのです。
「死んだら全部終わりさ」と考えている方も多いかもしれませんが、聖書はそうは教えていません。もちろんこの地上での生活は終わりますが、神様の前では、肉体の死がその人の終わりではないのです。神様を信頼するという生き方は「永遠のきずな」や「永遠の愛」を味わいながら生きるということと通じています。この肉体は一時的ですが、神様とのきずなは永遠に存在するのです。神様に愛されているとすれば、それは永遠の愛で愛されているのです。だからこそ、そのきずなをさらに深めるように生きること、その愛をさらに深く味わいながら生きることこそ、終わりの日への準備にふさわしいものとなります。
今日も皆様、お元気で。東京は真夏日が続きそうです。
祝福がありますように