最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、そしてイエス様の捕縛の場面が書かれている章です。その中にペトロの裏切りが予告されており、最後の節にはペトロの出来事が書かれています。ユダがイエス様を裏切ったことは、よく知られています。また、イエス様の捕縛の場面でも弟子たちは皆イエスを見捨てて逃げてしまったと記録されていますので、イエス様はそこに置き去りにされました。もちろん兵隊たちの目的はイエス様だけを逮捕にきたわけですから、弟子たちを逮捕するつもりはなかったはずですが、それでも、イエス様を見捨ててしまったという後悔の念はきっと弟子たちの中に育ったにちがいありません。
そして、イエス様の裁判とペトロの裏切りへと場面が動いていきます。ペトロは特に、弟子たちのリーダーとして、自分だけはイエス様についていきますと豪語していただけに、その落胆は大きかったと思います。他の弟子たちも気持ちは同じだったはずですが。自分の情けない実態をさらけ出され、それをイエス様が知っているということに
彼は大泣きするのです。でも、考えてみると、ペトロのこの出来事は、もしかすれば、彼の人生での一番大事なレッスンのひとつだったかもしれません。「謙遜」「慎み深さ」を学ぶための最も痛い出来事だったでしょう。ペトロは、その後、イエス様から「あなたは私を愛しますか」という質問を三度受けることになりますが、自分の思い上がりが粉々にされていく出来事だったと思いますね。それはヨハネの福音書の中に書かれています。
でもイエス様は、そういうペトロを断罪していないのです。ルカの福音書には「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」ルカ22;31-32 とあり、ヨハネの福音書には「私の羊を飼いなさい」と役割が提示されています。
罪や失敗は痛いものです。しかし、イエス様の中には赦しがあり、希望があります。それらの出来事が痛みを伴うものではあっても、どこかで自分を成長させるためのものとして活かされる可能性があるからです。希望はあるのです。
祝福がありますように。