バプテスマのヨハネという人が現れ、イエス様の到来の道を備える役割を自認し、人々に悔い改めて神様に立ち返るよう説教し、福音を語りました。そして、イエスキリストについて、彼は大切なことを告白しています。「自分は、水で洗礼を授けるけれど、そのお方は聖霊と火で洗礼をお授けになる」悔い改めのための水の洗礼は、「洗い、新しい出発の儀式」としての意味がありますが、その洗礼自体に、人を変える力はありません。
しかし、イエス様の提供する「聖霊と火による洗礼」は、直接的にその人の心の中に聖霊が注がれ、その人の内側に新しい力、聖さを求める意欲を与えるものであり、また火の洗礼とは、その御言葉によって、私たちを裁くお方でもあるとヨハネは語ります。キリストは私たちに対して、最終的な審判の言葉を持っているのです。私たちに直接働きかけることができ、私たちの内側を変える力をお持ちなのです。
しかも、ヨハネは「わたしは、そのお方の履物のひもを解く値打ちもない」と語り、イエスキリストに対して、自分はしもべほどの価値もないと告白するのです。自分とキリストとの違いを際立たせています。私たちの賛美や信仰姿勢の中に「私たちの身近な救い主、イエス様」という要素が入っていて、本当に親しい友人のようなイエス様の姿が表明されています。それは正しい理解だと思います。しかし、同時に、そのお方は、ヨハネが「自分にはそのお方の履物のひもを解く価値もないほど、優れたお方だ」と語っている存在でもあると認め、イエス様に対して自分は身をかがめ、礼拝する必要があると知ることはとても大切です。
「親近感と崇高さ」の両方をイエス様に対してしっかりと意識することが必要だと思います。悩み事を告白できる対象であり、同時に礼拝の対象でもあるのです。そのお方があなたとともに今日もいてくださいます。
祝福がありますように。