この章には有名な「失われた羊」「失われた銀貨」「放蕩息子」と呼ば話がでています。それぞれ、大切なメッセージを含んでいます。キリストなしの人生は「迷子の人生」であり「価値を見失っている」人生であり、「浪費と放蕩、無駄づかい」の人生になってしまうけれど、探し出そうと懸命になっている羊飼い、お金の所有者、そして待っててくれる父親がいるので、見出されたら大きな喜びがあるのだとイエス様は教えました。
しかし、弟息子が帰ってくるのをひとつも喜べない心の長男の姿がここに書かれています。人の祝福を全く喜ぶことのできない存在であり、自分はこんなに正しいし、こんなにまじめなのに、評価が低すぎると文句を言っている存在です。神様の愛の深さ、神様の恵みの豊かさをひがんでおり、なんであんな奴を赦すのですか、なんであんな人間を歓迎するのですかといきり立っているのです。それは当時の宗教家の姿そのものであり、エリート意識にどっぷり浸かっている特権階級意識ばかりの律法主義者たちの姿でした。
自分の正しさを主張することは、悪いことではありません。しかし、神様が赦しを宣言している人に対してひがむのはよくありません。神様を敵に廻すことになるからです。感情的には難しいことだと思いますが、それでも、私たちは神様の愛の心に文句を言えるほどの存在ではありません。「赦し」は、私たちにとって、大きな試金石であり、イエス様の十字架をどのように理解しているのか、どのように体験しているのか、そこで評価されることになるのかもしれません。
このお話に出てくる長男は赦せない人でした。そして、そういう心は私たちにもあります。神様の憐れみが必要ですね。お互いに。
祝福がありますように。