ふたりの祈りを参考にしながらイエス様は、人間の心にある高慢さについて戒めています。ファリサイ派の人の祈りは、立派です。自分が罪ある者ではなく、立派な人間でありきちんと神様の前になすべきことを実行しながら生きていますと断言し、それを神様に申告しています。「自分がこんなにすばらしい人間であることを感謝します。私は神様にこんなにすばらしいことをしています。」という祈りです。それに対して、徴税人の祈りは、見栄えのするものではありませんでした。彼は神殿から遠く離れ、目を下に向け、胸を打ちながら、「罪びとの私を憐れんでください。」と祈ります。そこにあるのは、神様の前での自分の小ささの表明であり、「取るにたりない存在ですが、神様の憐れみで生かされています。あなたの憐れみこそ、私の慰め、希望、いのちです。」と告白しているのです。
神様によって、創造され、生かされている人間が生き生きと生きているとしたら、それは神様にとって大きな喜びであるはずです。でも、その人間が、神様に、「私、すごいでしょう。こんなにあなたのためにやっているんですよ。私ほど立派な存在はいないでしょ」と言い続けたら神様にとって、どういうふうに聞こえるのでしょう。私たちは、どこかで、「神様、あなたに創造され、あなたに生かされていながら、あなたの思うようには生きていない自分がここにあります。あなたのすばらしい計画を無視したりあなたの戒めを破ることの多い私です。どうぞ憐れんでください。引き続き、助け、導いてください。」と祈る心が養われなければなりません。
人の心の高慢は、いつの間にか育ちます。それは神様に対しても人に対しても、すぐにその存在が明らかになります。でも自分にだけはなかなか気づきにくいものなのです。はだかの王様状態ですね。気をつけたいなと心底思います。
祝福がありますように。